御用達 薯蕷饅頭・酒饅頭
寺は本山 菓子商は下り御用達
11月23日は国民の休日で会社も休みだった。何故休みかよくわからない。
カレンダーには「勤労感謝の日」と朱文字で印刷されている。
週休2日に祝日、使いきれない有給休暇に特別休暇。
頭も体も使わず、金も使えず時間だけがある。
小生はこれをスローライフと呼んでいていいのだろうか。
よく働いた父は祝日を「旗日」と呼んだ。
そして朝には玄関先に日章旗を掲げていた。
そのあと気ぜわしく略礼服で外出し、帰りには「紅白饅頭」を持ち帰ってきた。
紅白饅頭が結婚式、入卒業式などなど祝い事に用いられることが少なくなった。
もう数年来、饅頭を口にしていないのではないだろうか。
饅頭は「まんとう」と呼ばれ伝来したときは、肉や野菜が包まれていたらしいが、小麦粉に餡を包み蒸したものに改良され「まんじゅう」と呼ばれるようになって久しい。
饅頭の歴史を遡ると、南北朝時代正平4年(1349年)、建仁寺(花見小路団栗)龍山禅師は中国元から帰国し、その師従者として渡来した林浄因(りんじょういん/応仁の乱後に「塩瀬」と改名)の手で、日本の饅頭第一号が生まれた。
その薯蕷(じょよ)饅頭は、饅頭の上新粉のつなぎに山芋をすって入れ、膨らませ、同量の上白糖を合わせて皮を作り、小豆の漉し餡を包んで蒸したものである。
後に、その子孫は烏丸六角上る饅頭屋町に塩瀬北家の店を構え、この薯蕷饅頭を販売し、足利義政から「日本第一番本饅頭所」の看板を授かるまでになった。
江戸開幕後、塩瀬北家は「下り菓子司」として江戸へ出向き「将軍家御用商人」となり、維新後には「宮内庁御用」と隆盛を極めた。現在は屋号「塩瀬総本家」として東京虎ノ門に34代目が菓子を商っている。
京都建仁寺山内「両足院」には「饅頭の元祖塩瀬代々の墓石」だけがいくつも残っていると聞く。
ところで、饅頭の名を二分してきた「薯蕷(上用)饅頭の塩瀬饅頭」の対極に、「酒饅頭の虎屋饅頭」がある。
「酒饅頭」は、寛永12年(1635年)に黒川円仲が御所に献上した饅頭である。それ以降、「酒饅頭」と「虎屋」の名を一躍有名にしている。
小麦粉に酒種を混ぜて小豆餡を包んで蒸す製法であるが、個々に酵母菌の培養を行う高度な熟練技術を必要とされていた。市中では難易度の高い技術のため、庶民に喜ばれる饅頭としての普及に、時間のかかった歴史がある。
その技術は、仁治3年(1242年)に中国より帰国した聖一国師(京都東福寺初代住職)が持ち帰り、製法を伝授したと伝えられている。
その「虎屋」も京都に発祥し「下り菓子司」となるも、御用達を授かり、東京に商い、隆盛を極めている。
これらの例にもあるように、僧の遊学により渡来伝播したものを、高度に昇華させてきた歴史に、京の伝統的な過程が見出せる。進取の精神を忘れることなく、更に、外国被れを志さねばなるまい。
けだし、この二社の菓子商が、時代の趨勢に従い、発信の本拠を他所に移していった点において「商売人としての尊敬」を置くも、その地縁性において、その精神文化性において、「京らしさ」を感じられないのは小生だけであろうか。
小っちゃいかも知れないが、京都中華思想の核は無くしたくないものである。
塩瀬総本家
http://www.shiose.co.jp/shiose_history.html
とらやの伝統と文化
http://www.toraya-group.co.jp/history/his02_001_01.html