平清盛 縁の地をゆくその七 厳島神社
宋と京を結ぶ安芸、兵庫築島
既にお気づきだと思うが、NHK大河ドラマでの清盛が手にしている刀剣は日本刀ではない。
直刀で幅広の刃、重量感のある剣である。斬るというよりは、相手をなぎ倒す使い方をしている。その重さと遠心力で倒し斬る威力を発揮する剣である。
鞘や柄には蛇革が巻かれた象牙色で、豪華な飾り意匠にできあがっていた。
これを「宋剣」と称している。
平清盛館の展示品(宮島歴史民俗資料館企画展示)にもなっているようだが、実際に高平太の頃から持っていたかどうかは怪しい。
しかし、武力のみならず日宋貿易で栄えた平家であるから、忠盛や清盛が持っていても不思議はない。
そもそも、天徳4年(960年)に成立した北宋は、貿易振興に積極的で、日本、高麗との貿易や南海貿易を行っていた。日本では大宰府の監督のもとで鴻臚館(こうろかん)貿易が行われていたが、やがて衰退し、日宋間の正式な外交貿易は行われていなかった。
当然にして一般人の渡航は禁止され、宋の商人達は博多や越前敦賀へ来航し、密輸を行っていたようだ。
保安元年(1120年)に越前守に転任した忠盛は、それを見て宋との私貿易に着目し、独自に交易を行い,そこで得た貴重な舶来品を院庁に献上して喜ばれ、近臣として認められるようになった経緯がある。
ドラマでは、その宋剣を清盛のイメージづくりと、平氏の勢力拡大の大きな要因のひとつである、宋国との交易を強くシンボライズさせての脚色がなされているのであろうか。
平氏は勢力基盤であった伊勢に産出する銀などを輸出品にして、陶磁器や絹織物、書籍や文具、香料や薬品、絵画などの美術品を輸入し、巨額の富を得ていたという。
その富は、天承元年(1131年)の鳥羽上皇への得長寿院(とくじょうじゅいん)の造営寄進をも可能にさせたのであろう。
そして、長承2年(1133年)、肥前国神崎荘にて、忠盛は勝手に院宣と称して、「院領、神崎荘における交易に大宰府が関与するを禁ず」の一文で、宋船の貨物を押収したのである。
これで大宰府が日宋の交易に口出しすることができなくなり、平氏の私貿易は公然と独自に行われるようになった。
宋銭も手に入れ、その潤いは鳥羽上皇、平氏、宋の三者を肥やすことになってゆくのである。
保延元年(1135年)、西海の海賊追討で功を挙げた平氏一門は勢いに乗り、保延3年熊野造営の功に対し清盛は肥後守に就き、久安2年(1146年)安芸守に、保元元年(1156年)播磨守に就いた。
この頃、1151年高野山大塔再建の褒章として、忠盛は刑部卿(けいぶきょう/刑罰・訴訟を扱う長官)となっている。
交易を司るには海を制することが必須であるが、日宋貿易につながる瀬戸内海の航路の域を手中に収めた平氏にとって、己が世にもなったに同然ではなかったろうか。
平治の乱の直前の保元3年(1158年)に大宰大弐(だざいのだいに/大宰府の次官)となった清盛は、日本で最初の人工港を博多に築き貿易を本格化させ、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握した。また、航路の整備や入港管理を行い、宋船による厳島参詣を行わせた。
この頃、宋とも正式に国交が結ばれ日本刀・硫黄・砂金などの輸出へと進展し、宋から大量の宋銭(銅銭)が流入し、市中に出回り、貨幣経済の進展に大きな役割を果たしたという。
彼の厳島神社は古より安芸一国の守り神で、推古天皇元年(593年)に創建された、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神を祀る神社である。
その宮島は島自体が神島として崇められていたところで、遣唐使のあった頃には百名を乗せるほどの大船が造られていたところである。
安芸の宮島を訪れた清盛は瀬戸内海の制海権を手中に収める意味を理解していた。と同時に、武士の世を作るための自らの本拠地を厳島神社と心に決めていたのだろう。
長寛2年(1164年)9月、清盛が一族の繁栄を願い厳島神社に奉納した平家納経三十三巻は、願文・法華経28巻・無量義経・観普賢経・阿弥陀経・般若心経から成る装飾経で、願文にはこれらの経巻を清盛、重盛、頼盛、教盛、そして重臣ら32人が一人一巻づつ書写したと伝える。
それから4年後の仁安3年(1168年)、清盛は平家の守り神として、また航海の守り神として崇敬してきた古びた厳島神社を、遂に、廻廊で結ばれた海上社殿へと造営したのである。
前年太政大臣を叙任した清盛は病のため辞任し、厳島神社造営と同時に出家している。世は後白河上皇の院政下で、六条天皇が譲位し、高倉天皇が即位していた。
さて、その厳島神社の分祀が京都御苑内にある。
通称「池の弁天さん」と呼ばれているところだ。堺町御門の西側、九条池のそばにある。
拾翠亭の茶室は東山を借景に勾玉形の池が広がり、なお一層景観を引き立たせている。池の中に小さな中の島があり、そこに厳島神社が祀られている。
その駒札にはこう記されている。
「当社は往昔平相國清盛公安藝の國佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の國莵原郡兵庫築島(神戸市兵庫区永沢町)に1社を設けてこの大神を勧請し給い鎮祭されたのであり
後故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました
後世年を経てこの九條家邸内拾翠池(しゅうすいいけ)の嶋中に移転遷座されたのであります
(濫觴(らんしょう)年代等は天明8年京都大火の砌(みぎり)旧地悉(ことごと)く焼亡して詳でありません)
この地旧公爵九條家の邸内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました
又古くより家業繁栄家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されているところであります」と。
社前にある石鳥居は、二本の柱の上に架かる島木と笠木がある「唐破風鳥居」と呼ばれ、北野天満宮・摂社伴氏社(ともうじしゃ)の「中山鳥居」、太秦蚕ノ社に鎮座する木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の「三柱鳥居」とともに、「京都三珍鳥居」といわれ、国の重要美術品となっている。
清盛創建の社寺は数多かれど、平氏の守り神と生みの親と伝わる祇園女御乙前が合祀された神社はここにしかない。
福原に別荘を構えていた清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3年(1173年)に私財を投じて改修を行った。
その泊(とまり)の前面に防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたのが築島(経ヶ島)である。
その経ヶ島に、当初社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したのである。
清盛の思いはいかばかりであったのだろうか。
清盛56歳の思いに心を馳せ、池中にかかる高倉橋にしばし佇んだ。