平清盛 縁の地をゆく その六 八坂神社
世のきしみが乱を呼ぶ
鳥羽離宮東殿の安楽寿院に、鳥羽上皇の墓所とする本御塔(ほんみとう)が造営された保延5年(1139年)、鳥羽上皇と美福門院得子との間に皇子躰仁親王(なりひと/のちの近衛天皇)が産まれた。
その前年春に、平清盛には長男清太(きよた/のちの重盛)、そして同年に次男清次(きよじ/のちの基盛)が誕生していた。二児の父となったのが清盛22歳の時である。
清盛の最初の正室は、高階基章(たかしなのもとあき)の娘であった。
基章は正六位相当右近衛将監(うこんえのしょうげん)で、内裏の守護や行幸のお供をする武官であったため、従四位下肥後守の清盛とは身分差があり、将来の棟梁の妻には相応しくないと、忠正や家貞など平氏一門からは大反対の声があがっていた。
この頃忠盛のもとへは、公卿や院の側近が、わが娘を清盛の妻にとの申し出が殺到していたようである。
しかし、清盛は頑として聞き入れず、愛しい女を娶(めと)り、自力で共に苦難を乗り切ると譲らず、黙していた忠盛も許すのであった。
身分の差で分け隔てのある世に疑問を抱いていた清盛らしい決断だったかも知れない。
大河ドラマでは、基章の娘を高階明子と称し、基章は嵐のなかで清盛らに助けられたことを、住吉明神のお告げにあった高貴な者との出会いと信じ切り、明子を清盛の妻にと説得するのである。
その気のない明子に、一目見たときから惚れ込んだ清盛は、北面の武士で歌に長けた友佐藤義清(のりきよ)に恋歌を詠んでもらい、口説き続ける演出がされている。
二児出産後、まもなくして明子は疫病で早世するが、久安3年(1147年)、清盛は30歳となって継室に22歳の平時子(1126〜1185年)を迎え、同年三男宗盛が誕生するのである。
時子は後にニ位尼(にいのあま)と称し、清盛が福原に移ると、西八条殿を継承し、壇ノ浦で幼い孫安徳天皇を抱いて入水したことで知られる。
時子には、父平時信(生年不詳〜1149年)との同母弟に時忠(1130〜1189年)、異母妹に滋子(1142〜1176年)がいた。
五条京極辺りに居を構えていた時信は、桓武平氏高棟王流・堂上平氏の一族で、文章生を経て検非違使、軍政を司る兵部権大輔となり、鳥羽法皇の近臣で、正五位下の判官代(ほうがんだい/院庁の家政機関の次官)として仕えていた。いわゆる中級貴族である。
ところが、滋子(のちの建春門院)は、時信の死後に、後白河譲位後の后として後白河上皇の寵妃となり、応保元年(1161年)に第七皇子憲仁親王(のりひと/のちの高倉天皇)を産む。仁安3年(1168年)高倉天皇の即位によって天皇の外祖父となったことから、時信は左大臣・正一位を贈位された。
平氏から皇太后を輩出し、名門の公卿となったのである。
となれば、一門の時忠も優遇されることになる。
久安2年(1146年)17歳で非蔵人、翌年に六位蔵人だった時忠は、妹が皇太后となった時には、従三位検非違使別当に就き、その年の内に権中納言となり、慶賀の儀式の公卿行列に加わるようになった。
後白河院の側近となった時忠は、清盛に続き、平大納言、平関白と称されるまで上り詰めるのである。
当時、その階層の者は、生涯をその階層で終えるのが通例だったから、奇跡のような出来事である。
因みに、平氏の栄華を讃えた「一門にあらざらん者は みな人 非人なるべし(平家にあらずんば人にあらず)」との台詞は、承安4年(1174年)正月、建春門院滋子のお蔭で従二位に叙せられた頃の時忠の弁である。
さて、時代を端折りすぎたが、時子を妻とした清盛は六波羅小松第に居を構えていた。この年久安3年(1147年)に清盛は、大事件を起こしている。
それは世の勢力を二分するきっかけとなった、世に名高い「祇園闘乱事件」で、平家一門の存続を揺るがす一大事の始まりであり、弟家盛との間で平氏の棟梁の座を争う原因ともなった。
時子の妹滋子が後白河院皇太后となる21年前で、近衛天皇の鳥羽院政の時代の出来事である。
その場所を歩くことにして、祇園の八坂神社に向かった。
その頃でいえば、東大路通の西楼門ではなく、神社の正面である南楼門から参詣したであろう。
南楼門の東南に徒歩で5分とかからない所に、祇園女御乙前の館があり、その筋向いといってもよい所には西行庵があるので、立ち寄った。
西行(1118〜1190年)とは、教えを請う清盛の先輩で、良きライバルで友であった北面武士佐藤義清の出家後の名である。
清盛が最初の妻明子に贈る恋歌を清盛にかわって詠ったのも義清だった。
義清は友の死に思うところあって、保延6年(1140年)、23歳で出家し円位を名のり、のちに西行法師と称していた。全国行脚をし和歌を詠み、終焉の地としたところが西行庵である。
それらは現在のねねの道沿いで、円山音楽堂の前に祇園女御の供養等が建ち、音楽堂の南隣には茅葺の西行庵があった。
さてさて、引き返し茶屋中村楼の前を過ぎ。南楼門を潜る。
祇園社から八坂神社となる明治期に、どれぐらい様子が変わったのだろうか。
6月15日、祇園臨時祭の夜に、清盛は平氏一門繁栄の宿願成就を祈るべく、田楽を奉納しようと参詣している。
田楽法師らには平氏の郎党が護衛として同行していたが、祇園社の神官に武具の携行を咎められ、小競り合いとなった。
やがて、騒ぎは大きくなり、郎党達は矢を放ち大乱闘と発展した。境内は放たれた矢で負傷者も出、矢は神宝や神輿などを格納する宝殿にも突き刺さったという。
同月17日、公卿を引き連れた鳥羽法皇・崇徳上皇一行は比叡山延暦寺に参詣し、経緯を説明し事を治めようとしたが、26日に、延暦寺の所司明雲が院御所を訪れ、清盛一党に厳罰を下すよう法皇に訴えを起こした。
それに対して忠盛は、下手人7人の身柄を院庁に差し出す先手を打ち、法皇はこれを検非違使庁に引き渡していた。
ところが、それでは延暦寺は納得せず、28日、僧兵が日枝社・祇園社の神官とともに神輿を押し立てて、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こしたのである。
徒党を組んだ僧兵らのわめき叫ぶ声は洛中に響き渡ったと伝える。
法皇は、源氏の軍兵を用いひとまず入京を阻止し、三日以内に道理に任せて裁決すると約束したため、僧兵らは一旦引き下がったらしい。
院政期、祇園社は比叡山延暦寺を本山とする末寺であった。白河法皇の三不如意にあるように、延暦寺の僧兵は神輿を担いで強訴する手におえないひとつであり、僧兵は祇園社に留まり、度々御所へ強訴していたという。
30日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿が集まり、祇園闘乱についての議定が開かれたが、結論はでず、現場を検分する使者を出すという方針のみが決められた。
その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、衆徒の主張と食い違う部分もあったと。
7月5日、検非違使庁に差し出されていた郎党は拷問を受け、田楽の集団の背後にいたところ境内で諍(いさか)いとなったので矢を射たと自白した。
8日、延暦寺・祇園社の書状検分による被害の調査報告書、検非違使庁の尋問記録に基づいて、法家に清盛の罪名を上申するよう宣旨が下った。
一方、裁決の遅れに憤激した延暦寺の衆徒は、再び強訴の態勢に入った。
法皇は天台座主・行玄に僧兵を制止するよう院宣を下し、15日には北面武士を西坂下に、「諸国の兵士」を如意山路並びに今道に配備して、僧兵の入京を断固阻止する構えを示したという。
23日、24日の議定も上申の結論が出ず、夜になって法皇が裁決を下し、清盛を「贖銅(しょくどう)三十斤」の罰金刑に処すことが決まった。
27日、闘乱を謝罪する奉幣使が祇園社に派遣され、8月5日には贖銅の太政官符に捺印の儀式が行われ、事件に一応の区切りがつけられたのである。
延暦寺の僧兵にとっては大いに不満の残る結末となり、法皇は延暦寺の不満を宥(なだ)めるため、翌久安4年(1148年)2月20日、祇園社で法華八講を修し、忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進したとつたえる。
ここまで来ると、これは平氏一門の失脚、流罪などの問題ではなく、朝廷と寺社勢力との戦いで、法皇にとっても、頼りとする平氏の庇護を、否、武家の庇護の上に、寺院勢力から朝廷の擁護を為さざるを得なかったのであろう。
祇園の乱闘事件から5年後、仁平2年(1152年)、35歳となった清盛は時子との間に四男知盛の誕生を見、翌年忠盛58歳で死去、平家一門の棟梁に着任している。
清盛は、まことに勝負運の強い男であると思いながら、幼し頃の祇園女御との双六遊びを思い出した。
そして、境内東にある「忠盛燈籠」を眺め、白河院の落胤清盛の母は祇園女御とする平家物語の一節を読み返した。