平清盛 縁の地をゆく その三 鳥羽と平氏
源平合戦ファーストラウンド
崇徳天皇が即位した6年後の1129年、3月に平清盛は元服し、7月に白河法皇は崩御した。崇徳天皇11歳、鳥羽上皇28歳での院政の始まりである。
祖父白河法皇の43年間の院政による政権を真似るかのような、三代28年間にも及ぶ鳥羽院政の世を敷き続けるのである。
虐げられ続けていた鳥羽上皇の反動は、良くも悪くも乱世への道を歩むことになった。
まず、鳥羽上皇の后璋子(待賢門院)の産んだ子ではあるが、祖父白河法皇を実父とする崇徳天皇の存在は疎ましいものであったに違いない。
実子でない崇徳天皇は、鳥羽上皇にとっては叔父にあたり、継子であるが故に「叔父子(おじこ)」という憎々しい呼び方をしていたのである。
それでも璋子を寵愛していたようで、五男二女を設けていた。
ところが、1139年、美福門院得子との間に躰仁(なりひと)親王(後の近衛天皇)が誕生した。
この時、鳥羽上皇は第八皇子となる躰仁親王を皇太弟とし、崇徳天皇を22歳で譲位させ、1142年近衛天皇を4歳で即位させたのである。
1140年、子に恵まれなかった崇徳天皇に第一皇子重仁親王が生まれたのも皮肉な話である。崇徳上皇となるも、皇太弟の即位となったからには、崇徳が院政を敷く道は閉ざされたことになる。
白河に対する鳥羽の皇位継承の復讐は、見事成し遂げた思いであっただろう。
近衛天皇を即位させた康治元年(1142年)に、鳥羽上皇は東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
その重仁親王は、後に鳥羽法皇と美福門院得子の養子とされ、崇徳に一抹の期待を抱かせるが、鳥羽法皇は近衛天皇に子ができなかった時のことを考えたのか。それとも第八皇子だった近衛天皇より年上で、皇位に無縁となっていた第四皇子の後白河天皇の即位までもの、もう一幕の復讐までも考えていたのか、そのしたたかさは想像の域を留める事ができない。
一方、鳥羽院政となった時より、白河法皇の「殺生禁断令」を解き、白河法皇に疎んじられていた摂関家藤原忠実(ただざね)を呼び戻し、白河派の貴族の一掃を企てる政務につかせ、その娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固めるよう策を弄していた。
そして、「北面の武士」の強化も図っていた。
「北面の武士」とは、白河法皇が創設した院の御所を守る直属の軍事組織である。武士達が院の御所の北側の部屋の下に詰めていたことから、そう呼ばれるようになったという。
院の身辺警護に始まり、僧兵など寺社の強訴にも動員されるため、武芸場で弓矢や剣、流鏑馬などの稽古を積み、舞や歌合せにも通じるよう精進が常であった。
忠誠を誓い、朝廷に取り立てて貰うためには、氏素性が知れ文武両道に長け容姿端麗が要件であったとされる。
朝廷で検察、裁判、警察などの役割を任じていた官職は「検非違使」であったが、政権を握る院の直属軍の時の勢力には敵わず、その職務権限さえも取って代わるようになっていったのである。
それでも、貴族との身分階級の差は甚だしく、血や穢れの多い武士は蔑まされていた。
白河院の死後3年経った天承二年(1132年)、鳥羽院の勅願により、平忠盛は「得長寿院」を造営寄進している。白河南殿に付随するように建てられた御堂は、鳥羽上皇の心を満たすものであったようだ。
観音堂には、十一面観音に等身聖観音千体が安置され、現存の三十三間堂の手本になるものであったらしい。
鳥羽法皇の心を掴んだ備前守平家の棟梁忠盛は、正四位下(しょうしいげ)の位階を賜り昇殿を許され、但馬国の国守を任ぜられた。
律令制の位階では、五位以上が貴族と呼ばれ昇殿が許されていたのである。
しかし、大層平氏を取り立てた鳥羽法皇も、白河院の落胤であり無頼の武勇に名高い清盛に一抹の不安を覚えていた。
大河ドラマ第3回では、平氏一門が鳥羽法皇に忠義を尽くす証を見せよと迫る場面があった。院の近臣家成の進言により、「北面の武士」に清盛を用いるよう、鳥羽法皇は忠盛に命じたのである。
朝廷の犬と父忠盛に反発していた清盛も、牢破り騒動の責任の取り方として、平氏没落の引き金となる自首の選択は選べず、平氏破門で朝敵となるか、白を切り北面の武士となるかを迫られるのである。
平氏の冠なしには生きられない不甲斐ない自分を知った清盛は忠盛に屈する。
こうして、忠盛は鳥羽法皇の確固たる信頼を得るようになり、とうとう殿上人(でんじょうびと)となるのである。
王権を握る院と藤原摂関家と殿上を許された武士、将来の政権を巡る三つ巴の舞台が始まっていることは、この時の清盛には知る由もなく、未だ見えていなかった筈である。
白河法皇に罵られ、白河殿の庭で舞子を失い、平太を腕に抱いた時、筋金入りの朝廷の犬になると決めた忠盛にのみ、鳥羽法皇の殿上人となった将来が見えたのであろう。