平清盛 縁の地をゆく その十 祇王寺
愛憎確執栄枯盛衰を垣間みる吉野窓
清盛が愛した女性は先妻の「高階基章の娘」、後妻の「平時子」だけではなかった。平家物語に登場する「妓王(祇王)」や「仏御前」は、語り草が物語化されたものぐらいに思っていた。
清盛の長男重盛の母の名も文献に見られないのに、「妓王」などの名が何故残されているのかとの疑問が、そう思い込ませていたのである。
祇王は白拍子で清盛の寵愛を受けるが、新たに現れた「仏御前」のためにその寵愛を失い、母、妹とともに剃髪し、洛外の地に庵を結び閑居したという話は、平家物語だけでなく、源平盛衰記にも記されている。
そればかりか、常山楼筆餘(じょうさんろうひつよ/湯浅常山著)の巻ニには、祇王の出自にも言い及んでいるのである。
更に、後白河法皇自筆の過去帳にもその名が残されているというからには、実在の人物で、物語も戯曲ではないと信ぜざるを得ないのである。
その過去帳は、後白河法皇の建立した院御所・六条西洞院殿の持仏堂として開基された長講堂(現富小路六条)に、後白河法皇坐像(重文)とともに伝承されていた。
「第46回京の冬の旅 非公開文化財特別公開 長講堂」で、「過去現在牒(かこげんざいちょう)」を見た。その過去帳には、歴代天皇の名の後に「為朝、為義、閉、妓王、妓女、仏御前」と、間違いなく記されているのである。
祇王は平家の家人・江部九郎時久の長女として、近江の国野洲(祇王村)に生まれ、父は近江の庄司(荘官)だったが罪を被り北陸に流されることになり、残された祇王と妹の祇女(ぎにょ)、母の刀自(とじ)の三人は都に出て、白拍子となり生計をたてることになった。
祇王祇女の白拍子姉妹の歌と舞いは比類なく美しく、たちまちその美しさは都の評判となり、やがて清盛の耳にも届くようになった。
清盛は姉妹を呼び寄せ、早速にその歌舞を披露させると、その気品ある歌舞は勿論のこと、ひと目見た祇王の美貌に惹かれ、祇王を西八条殿に住まわせ、そのうえ母や妹に一棟の家を与え、暮らしの面倒までみるほどの恋仲となったのである。
平家全盛の時代であるが故、親子は都人の誰もが羨むくらいに、何不自由なく安穏に暮らすことができるようになり、祇王は日夜朝暮の酒宴に、常に側近く仕えるようになったのである。
清盛50代中頃の出来事と思われる。祇王の生年は不詳であるが、およそ18歳頃のことであろう。
そうして3年ほどの月日が流れたある時、加賀の国は小松出身の仏御前(1160〜1180年)と称する評判高い白拍子が、清盛に舞いを見せたいと現れるのである。
現れた16歳の白拍子・仏御前を、祇王にぞっこんだった清盛は「呼びもしないのに、勝手にきおって」と立腹し、門前払いさせるのだが、見かねた祇王は境遇を同じくする気持ちからか、これを取り成した。
「遊び者の推参は常の習ひでこそさぶらえ。・・・・・御対面さぶらえ。」と、招き入れるのである。
気乗りのしなかった清盛であったが、仏御前の得意とする今様に聞き入るのである。
「君を初めて見る折は 千代も経ぬべし姫小松 御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」
仏御前は西八条殿の光景を見て、この今様を即興で詠んだ。
仏御前の今様に関心を示した清盛は、舞を見たいと言い出したのである。
「わごぜは今やうは上手でありけるよ。このぢやうでは舞もさだめてよかるらむ。一番見ばや。つゞみうちめせ」
その場の耳目を集める見事な歌と舞いに、またもや一目惚れ、瞬く間に仏御前に心を奪われてしまうのである。
瑞々しい仏御前に西八条殿に留まるよう勧めると、
「(名をあげるべく)舞いを見せたかっただけなので私は帰ります」と、
祇王の思いに心を走らせた仏御前の言葉に耳を貸さず、清盛は、
「すべてその儀あるまじ。但 祇王があるをはゞかるか。祇王をこそ出(いだ)さめ」と、
それまで寵愛していた祇王を西八条殿から追い出してしまったのである。
急かされた祇王は、泣く泣く部屋の掃除をし、障子に一首の歌を書きつけた。
「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはではつべき」
仏御前は寵を受け、わたしは捨てられる。どちらも同じ野の草のように、いつかは飽きられ、枯れていくと女の無常を詠ったのである。
祇王は家に帰るもただ泣き暮れるばかりの毎日を余儀なくされた。
その歌碑は、西八条殿跡の若一神社境内に「平家物語史跡 祇王歌碑」として建立されており、神社には、一陽斎豊国(江戸時代)の筆による、西八条邸での宴の様子と障子に一首書きつける祇王の様子を表わした東錦絵が所蔵されている。
更に翌春、事もあろうに清盛は、祇王に使者を出した。
「仏御前が退屈そうに見えるから、こちらへ参って今様を歌い、舞を舞って仏御前を慰めろ」とである。
厭きれかえった身勝手に過ぎる話である。
落ちる涙を抑えつつ母に説き伏せられた祇王は、清盛の権勢に屈服し西八条殿へと出向き、今様を詠い舞い踊らされたのである。
「仏も昔は凡夫なり われらも終(つい)には仏なり
いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」
祇王のその今様に居並ぶ諸臣も涙を絞り、あまりの屈辱に祇王は死を決意するが、自害は思い留まり、母子三人揃って世を捨て髪を剃って尼となり、嵯峨の山里往生院(現祇王寺)へ出家し、境内に庵を構え念仏を唱え暮らすこととなった。
祇王21歳、妹の祇女19歳、母の刀自45歳のときである。
それはあまりにも痛々しい悲劇である。
その祇王寺へと歩いた。
嵯峨釈迦堂からニ尊院を経て、小倉山を左前方に見て坂道を上る。
右に檀林門跡寺が見えると、その正面が祇王寺の境内で、更に細道を行くと滝口寺である。
小さな門を潜って進むと苔むした庭が広がる。嵯峨野の静寂に身が包み込まれるようである。
大きな本堂や鐘楼、多宝塔があるわけでない。
茅葺の瀟洒な庵と庭、竹林と山懐だけの寺である。
正に都での憂き目を避け、仏道に精進する隠遁生活が思い浮かぶ。穏やかな時のながれを感じさせられた。
平家物語に綴られる悲劇は更に続いている。
尼となった仏御前がほとほとと叩いた編戸が奥の部屋に見えた。竹で組まれた丸窓がそれである。
吉野窓と呼ばれる影が虹の色に表れるらしい。暫し光の射すのを待ってみた。その間、庵の主のつもりか白い猫が我が物顔に闊歩するではないか。白拍子の霊が宿っているのだろうか。
僅かニ間の庵の手前の部屋に木像大日如来を置く仏間を見つけた。
祇王、祇女、刀自の母子が念仏を唱えていたところで、剃髪した17歳の仏御前が加わり四人で唱え、浄土を願った大日如来像が目前に鎮座していた。
吉野窓を叩いたあとの、仏御前の口上がある。
「娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何になりましょう。人の身に生まれる事は容易ではなく、その上、仏門に入ることもますます困難です。老少不定のさかいであれば、年の若きを頼りにもできません。蜻蛉や稲妻よりも更にはかなく、一時の楽しみに誇り、後生を知らぬことの悲しさに、今朝、邸を忍び出てこのようになりました」と。
障子を開け庭に目を遣ると、腰を曲げて苔の養生をする姉さん被りの婦人の姿があった。
ふと、祇王だろうか、仏御前だろうかと思えた。