花と言えば梅
左近の桜は藤原氏の陰謀で左近の梅の座を奪い取ったという推論
平安朝の「桜」は時代の気風を表している都の花であった。
貴族の花見が「観梅」から「観桜」に変わってきたのもこの頃のようである。
だから、「花」といえば「桜」というほどに都人は桜を愛するようになっていったようだ。
それ以来現代に至るまで、「桜」は表舞台に立ち、「菊」と並び日本を代表する花となっている。
それに比して、「梅」は常に地味で粗末に置かれている感がする。
京都において、更にもっと「梅」が持て囃されて良いのではないだろうか。
こんな不思議を抱いていた。そして、書物や伝承を探っていくうちに少しく頷けた。
奈良時代に遣唐使(630〜894年)によって伝来した「鳥梅(うばい)」は日本に根付き、万葉人に愛されていた。そして白梅から紅梅へと平安時代に受け継がれている。
794年平安遷都にあっても、桓武天皇は、紫宸殿前に左近に梅、右近に橘を配している。
ところが812年、嵯峨天皇が南殿で催した最初の観桜会を皮切りに、梅をこよなく愛した右大臣菅原道真公(845〜903年)の興亡を境に、俄かに貴族文化象徴の花の様子が変化し、後世に向けて一転しているように思えてならない。
飛梅(とびうめ)伝説によると、901年1月藤原時平のねたみから無実の罪で大宰府へ左遷となった道真公を慕い、京の邸宅書斎の紅梅殿から大宰府天満宮へ一夜にして飛来した梅がある。飛梅は大宰府天満宮本殿前の右側にあるご神木である。
このとき詠んだのが
「東風(こち)ふかば においおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
である。
この歌を詠んだ2年後、道真公は帰京することなく大宰府にて従二位大宰権帥(ごんのそち)として没した。
その2年後、従者「味酒安行(うまさけのやすゆき)」によって大宰府に祀られた。
しかしながら、帰京できぬ道真公の怨霊に纏わり悩まされた朝廷は、没後44年(947)にして、やっと北野天満宮を創建し、追善供養することにした。
が、その後も神格化された道真公の怨霊説が止むことはなかった。
朝廷より最高位の太政(だじょう)大臣を追贈されたのは、時既に993年、左遷詔書より92年を経ての出来事だった。
さて、御所紫宸殿前の左近の梅が桜に変えられたのはいつ頃なのか。
一説に、鶯宿梅(おうしゅくばい)の故事を基として、963年に村上天皇が植え替えたという説もあるが、この梅の代わりに植え替えられた桜は清涼殿前であるようだ。
また一説に、846~848年頃に 仁明天皇が桜好きだった嵯峨上皇を偲んで桜へ植替え、その実、藤原時代到来の威力を知らしめたという説がある。
この頃というと、道真公生誕(845年)の間もないときである。
歴史を背負う紫宸殿の梅の精の生まれ変わりとは考えられないだろうか。
梅の精を背負い不運な最後を遂げた菅原道真公と、仁明天皇をして藤原の栄華を示唆し桜になぞらえた太政大臣藤原良房の運命めいたものと、小生は推論したい。
仁明天皇が御所には左近の桜と命じられてから以降、桜の置かれる位置となって歴史は続いている。その後武家社会では花は桜が主役の座についてる。
しかし、初の観桜会を開いた嵯峨上皇の住まいした嵯峨御所(大覚寺)は、今も左近の梅が護られている。
菅原道真公と天神縁起 (Lumi)
http://www.ffortune.net/symbol/rei/mitizane.htm
山陰亭 (Makiko Taniguti)・・・菅原道真に関わる詳細情報が一読瞭然です。
http://www.michiza.net/
京都御所
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html