菊花観賞
自然の美しさが最高峰ブランドの由緒謂れ
令和元年10月22日、皇居宮殿正殿・松の間「において、「即位礼正殿の儀」が執り行われた。大正天皇、昭和天皇の即位礼は京都御所で行われたものであるが、125代明仁天皇の即位礼より皇居にて執り行われるようになった。
然しながら、即位礼に用いる「高御座」と「御帳台」は、都度京都御所より運ばれている。京都御所紫宸殿で目にしているものである。
そして、皇居正殿中庭を映すテレビ画面に、御旗が見えた。神々しい菊花紋章を目にしたのである。
さて、時代祭の維新勤皇隊の先頭の旗をご覧になったであろうか。
まさに、あの旗が「錦の御旗(にしきのみはた)」である。
赤地の錦に金色の日像、白地の錦に銀色の月像が刺繍されている。
朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に下賜(かし)される朝廷の軍である証とされた旗印である。
錦の御旗は、後鳥羽上皇が配下の将に承久の乱(1221年)に与えたのが初見であるが、御旗に類似した旗に、密教用具をつけたものであったと記されている(承久兵乱記)。
元来、御旗の日月旗(じつがつき)は天皇の渡御時に鳳輦の前を行き、天皇の場所を知らすもので軍旗ではなかったからである。
また、別名を菊章旗と呼ばれるものは、赤地に金色の十六弁の菊紋があり、天皇家の紋章とされている。
後鳥羽上皇は好んで衣服や調度品に菊の文様を使用していたと記録に残る。また自らも刀を打ちその刃紋に十六弁の菊紋を入れ、それは「御所焼」「菊御作」と呼ばれている。
これより天皇と菊との関わりが深いことがわかるが、天皇家の紋章が菊や日月の紋章であるとの記録が残ってるわけではない。
天皇家が十六花弁の八重菊、皇族は十四花弁の裏菊と定められたのは明治2年皇室儀制令で、明治4年の「皇室家紋制定」によって、皇族以外が菊の紋章を使用することを禁じているのが成文化されたものである。
そして、現在の皇室典範には、紋章についての記載は行われていない。
しかし、十六花弁の八重表菊の紋章といえば、天皇家を指すことは日本人の常識である。
また、日章旗が国旗であるように、菊花紋章が国章である。
能書きを論じるより、パスポートの表紙を見れば、十六花弁の一重表菊が記されていることより判るはずである。勿論、日本国は菊花紋章と国際的にもそう認識されている。日月と菊の花がデザインとして昇華したと考えられる国章は慣例的に使われ続けているが、法制化されていないのは、法治国家として恥ずべきことである。
ところで、京の街を歩けば、菊花紋章をよく見かけられるに違いない。
京都御苑は勿論のこと、神社の神紋は言うに及ばす、仏閣においても菊花紋章が冠されている寺院にお気づきになるだろう。
仁和寺を筆頭に、大覚寺、青蓮院、知恩院、三千院など親王門跡を数えただけでも、全国十七ケ寺中十三寺院あり、尼門跡、各宗五門跡などもあり、物見遊山で行き当たらない方が不思議なくらいである。
また、それらの御用達の匠の品々にも見受けられる。
これだけ菊に由縁のある街であるが、菊花観賞となると行き先に戸惑う。
梅や桜や紅葉と同じようにはいかないのである。直ぐに名前が挙げられるのは、貴船神社の貴船菊に大覚寺の嵯峨菊である。
貴船菊は秋明菊の別名で、濃いピンクの八重咲きに、白とピンクの一重咲きがあり、古くより貴船の地に多く咲いていた。嵯峨菊は、大沢池の菊ケ島に自生していた野菊を、王朝の気品を持たせるよう、永年にわたり改良洗練された格調高い菊である。嵯峨天皇がこよなく愛され、大覚寺に植えられたものが始まりで、古典菊といわれる嵯峨菊・伊勢菊・肥後菊・江戸菊の中で、最も古い歴史をもつ菊である。
花びらは平たく、まず乱れ咲きに開き、次に花びらがよじれて立ち上がり、全て立ちあがって満開となる風流な味わいを持つ。
その色も嵯峨の雪(白)、右近橘(黄)、小倉錦(朱)、藤娘(桃)などとの呼び習わしがあり、風情のある淡い色あいを見せてくれる。京にいてこの菊を見ないでいるわけにはいかない。
そのほか、この時期の京都での菊花展を調べてみると、西本願寺本堂の前庭に400鉢が、京都府立植物園の大芝生地特設展示場に約500鉢が展示されているようだ。
数多くの花の中でも高潔な姿と香りでどの花にも劣ることのない菊。丹誠込めて育てられ、仕立て上げられた様々な菊に秋を、日本を感じてみられてはどうか。
そうすれば、重陽の節句も思い出し、一段と見直す機会となるやもしれない。
天皇陛下の「即位の礼」に関するお知らせ
https://dwl3.gov-online.go.jp/video/cao/dl/public_html/gov/sp/gosokui/index.html
京都三大祭 時代祭
http://www.heianjingu.or.jp/festival/jidaisai.html