京の着倒れ
伝統産業の日を考える
「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、神戸の履き倒れ、江戸の買い倒れ」と、こんな言い回しがある。
文字通り「倒れる」は「身上(しんしょう)を食いつぶす」との意味だ。
「着倒れ・食い倒れ」を辞書で繰ると、「衣類に金をかけて財産をなくすこと、飲食にぜいたくをして財産をなくすこと」と出てくるが、「履き倒れ・買い倒れ」は出てこない。
昭和初期の頃までは、婚礼に箪笥の肥やしになるぐらいの着物を持たせるのに、山林田畑を離さなくてはならないほどの支度が必要であったことから察すると、「着倒れ」するぐらいの着物の物資的価値と文化的価値は想像に値する。
一方、「江戸の買い倒れ」は、女郎買いのことを指していたようで、これも身上(財産)を無くしたであろう。その言い回しは大正時代以降の言い回しで、それまでは、「江戸の食い倒れ」と言われていたらしい。
しかし、飲食や履物では破産することは考えにくい。とすると、その豊富さゆえに、全部を所有使用するには破産も値するほどである、との意味なのか。
どうやら、これはその土地毎の価値観を表している表現のようである。
「身上(しんしょう)を食いつぶすくらいに○○に金をかける。」という文化度、価値度合の比重を表していると解釈するとしっくりと来る。
平たく言うと、「各々の町の道楽を一つあげるとこれだよ。」との意味である。
つまり、「着倒れ」は「着道楽」。「食い倒れ」は「食い道楽」。「履き倒れ」は「靴道楽」。「買い倒れ」は「女道楽」。こんなことになるのだろうか。
○○倒れという言い回しは、江戸時代後期の東海道中膝栗毛(作者/十返舎一九)に記され、その頃より後に使い囃されている。
当然、その地には道楽三昧できるだけの生産、提供サービスの素地が充実していることが、理の行き着くところである。
「京の着倒れ」は「着物道楽」としては生きているが、着衣に文化価値を置き、その文化を更に育むという点で地盤沈下は甚だしい。服飾、アパレルという語彙が生産地との関係で縁遠くなったからであろう。
西陣織、手書き友禅染めという家内工業生産地と見るのか、技、ノウハウ、ソフトコンテンツとみるのかの、視点の違いで雲泥の差がみいだせるのだが。
何回かこの主旨の提案をしたことがあるが、やっと兆しが見え始めたかという程度であるのは残念だ。
シュワルツネガーに贈るテンガロンハットを制作した金襴師廣瀬正樹氏などにその兆しの一旦が伺える。それには世界をマーケットにした期待がおける。
春分の日を京都では「伝統産業の日」と定めた。そして、連鎖イベントが「みやこめっせ」を始め各所で多彩に行われている。
お出かけの節には、是非着物に召しかえるか、和柄遊びのファッションてお出かけいただきたい。
着物姿なら京都市の交通機関や施設が無料となるようだ。
行政の行う催事にやっと血が通い出したと感じるのは小生だけではあるまい。
この日だけでなく、年中やっても悪くない経済効果試算は成り立たないものなのだろうか。
そして、帯地や着物地で作った他の着衣などでは、無料にはしてもらえないのだろうか。現場のオペーレーションマニュアルを見てみたい。
今や、日本国中の老若男女で「世界のブランド倒れ」になって久しいが、その審美眼は養われているのだろうか。
京の「着倒れ」は着物の美術工芸価値を見抜く目が要る。「箪笥の肥やし」とは着物の意味で、そのものを美術資産として身近に置き、無意識の中に養われる美意識に価値を置き、また、その子に継承しているのである。
祖母は、浴衣の古くなったもので、おしめや雑巾を縫い、ボロ布になったものは燃して庭木の土に撒いていた。たぶん肥やしになったのだろう。何世代かを経た訪問着も常着にし、更に座布団を縫ったり、襖に張ったり、端切れでつくられたおじゃみは妹の遊び道具であったことを思い出す。
最後まで使い切る精神は、単なる始末にとどまることなく、これぞ道楽の極みであると思った。
着倒れの街京都に、”渇を入れるおしゃれ心”で、是非繰り出して貰いたい。
伝統産業の日 (京都市伝統産業課)
http://www.city.kyoto.jp/sankan/densan/densannohi/
M-HERO (職人.com)
http://shokuninn.com/masaki-hirose-profile.html
大阪名物 くいだおれ
http://kiki0438.hp.infoseek.co.jp/kuidaore.htm
関西おもしろ文化考 ファッション (読売新聞大阪本社)
http://osaka.yomiuri.co.jp/omoshiro/010221.htm
着倒れの街のローラライズパンツ
(上海通信)
http://www.mxtv.co.jp/shanghai/oa/030405_2.html