後白河法皇と法住寺殿に法住寺陵
京政治の終わりで、ありゃ、こりゃどんどんどん
ハイアットリージェンシーの「ザ・グリル」でランチを取った。
三十三間堂の通し矢は済んでしまったが、またもや東山七条にやってきたのである。
車が止めやすいエリアの上に、国立博物館周辺の余裕を感じさせるロケーションが気に入ってる。
それに、三十三間堂創建を発願した後白河上皇(1127〜1192年)について、小生があまりにも浅学過ぎたのか、知るほどに関心が高まってきたことも、またもや足を向けた理由である。
この地は院御所であった。世が世なら、この辺りは到底小生などが出入りできるところではなかったはずだ。
知れば知るほど、誠に好奇心をそそられる場所である。
その地に立ち、その場の空気に触れ、往時を空想するのは実に楽しいことである。
東は東山の裾野に及び、西は大和大路通(法性寺大路)に及ぶ、南は泉涌寺道(観音堂大路)、北は正面通(七条坊門小路)にあたる領域は法住寺殿域内であった。
その天台宗法住寺は、永祚元年(989年)藤原為光により創建、長元五年(1032年)焼失したが、その後の変遷を経て、広大な境内の同地に、保元三年(1158年)退位する後白河天皇の院の御所が三年の月日をかけ築造され、法住寺殿として復興し、生まれ変わったのである。
法住寺殿内は、後白河上皇の住居があり、神仏への信仰場所があり、院政治の行われる場所となった。
永暦元年(1160年)には、法住寺域内に、滋賀県大津市の日吉大社、和歌山県田辺市の熊野本宮の神々を守護神に勧請し、新日吉(いまひえ)神社・新熊野(いまくまの)神社が造営された。
不動堂を始めとして、蓮華王院(三十三間堂)、五重塔など、見る見るうちに壮観な寺院の体裁が整い、後白河上皇自らも仏事を厳重に修法し、遂に法皇となっている。
後白河法皇は、この地にて、実に三十年を超える五代の天皇の間、院政を敷くこととなった。そして、この間平氏も栄華を極めることとなる。その六波羅探題は法住寺殿の北方にあたる渋谷街道に続く六条から、清水坂に続く五条大路の間にあった。
寿永二年(1183年)、平清盛が没する。清盛を失った法皇は二年後の法住寺合戦にて木曽義仲に破れ、法住寺から六条殿長講寺に遷られるも、法住寺殿に戻られたのは、建久三年(1192年)崩御された後で、法華堂に葬られ安置された。
その崩御の建久三年には、源頼朝が征夷大将軍に任命され、諸説あるが鎌倉幕府が成立し、武家政治が始まった時とされている。
公家政治から武家政治への過渡期の波乱万丈の舞台の中核となる法住寺殿がこのエリアだったのである。
国立博物館のあるところが法住寺殿内七条殿のあった場所で、政治が司られ、ハイアットリージェンシーのあるところは南殿域内で、七条通より南が住まいと信仰の場所である。
七条通南側の三十三間堂に沿った東の道の東南角が赤十字血液センターで、その南隣が浄土真宗養源院である。養源院に向かう上り坂の途中、後白河天皇の法住寺陵が右手に見える。
養源院境内の鐘楼から法住寺陵法華堂の甍を眺め、往時の法住寺殿内を空想してみた。西に目をやると、三十三間堂の屋根が往時のままの姿で南北に横たわっている。五重塔は消失しているはずなのだが、五重塔が見えた。
幻覚であるのか、目を凝らすと京都タワーと東寺の五重塔がはるか向こうにあった。
養源院を出て左に下ると、法住寺陵へ入る通路があり、門扉は閉ざされている。
その境界あたりに、「身代わり不動尊」の幟が立ち、法住寺の山門が開かれていた。
法住寺創立より千百余年もの間、ご本尊として崇め守られてきた「身代わりさん」こと不動明王の木造立像(慈覚大師作)に参詣祈願させてもらった。
木曽義仲攻め入りの難に際し、法皇の一命に身代わりとなり救われた伝承が残っているお不動さんである。
現在宮内庁管理となっている法住寺陵であるが、現法住寺の東の庭の塀越しにも見える。
過日に「無病息災大根焚き」の接待行事があり、法住寺陵御前立御尊像「後白河法皇御木造」に、親鸞聖人自作「阿弥陀如来像」、「親鸞聖人そば喰いの御像」を拝観させてもらった。
国宝三十三間堂は、上皇の発願にて平清盛が建立した法住寺殿内のひとつのお堂であったわけだが、千体の千手観音を残し、名を轟かせている。
普段より、観光客の人達に任せ放しで、参詣が等閑になりがちな三十三間堂にも参詣祈願し、今日、あらためて千手観音像をじっくりと拝ませてもらった。
巡る歴史の中で、法住寺陵法華堂の中から、変わらぬ三十三間堂と変わり行く辺りの景色と行き交う人々を、どのように眺められているのだろうか。
後白河法皇の想いが、声となって届いてくるまでと思い見ていたが、何も聞こえてこなかった
そして、豊臣秀吉らが躍起になって三度も造顕した方広寺の大仏も消失し、江戸天保年間に再興された大仏も昭和四十八年消失、京都にひとつとして残っていない不思議に気づいた。
こんな京の童歌があったらしい。
「京の、京の大仏つぁんは天火で焼けてなあ。三十三間堂は焼け残った。ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん。うしろの正面にどなた。お猿きゃっ、きゃっ、きゃっ。」
ありゃどんどんどん、こりゃどんどんどん、この意味が未だ解けない。
ハイアットリージェンシーにランチを取る日が続きそうである。
法住寺陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/077/
蓮華王院 三十三間堂
http://sanjusangendo.jp/
養源院
http://kyoto-higashiyama.jp/shrinestemples/yogenin/index.html