流し雛と雛人形
雛人形のルーツと今昔変遷
桜の神様がご鎮座する「梅宮大社」では、今が盛りと梅が咲き誇っている。
その時も折り「桃の節句」がやってきた。梅・桃・桜、いずれも春を象徴する花木であるが、「桃の花」を明確に言い当てられない。
しかし、♪灯りをつけましょ雪洞に お花をあげましょ桃の花♪と、いかにも著名である。
京都で「桃の節句」と言えば、「下鴨神社の流し雛」「宝鏡寺 春の人形展」「市比売神社のひいな祭り」があげられる。
「流し雛」は古来日本の人形(ひとかた)に厄を移す風習と、中国伝来の「上巳(じょうし)の節句」の厄祓いが合い混じり、平安時代から室町時代まで盛んに行われていた。
禊ぎの行事として人形を流す祭礼は、下鴨神社境内に流れる御手洗川で執り行われる。一方、平安時代に貴族の子女達は、紙人形や小物品で、ままごとに夢中であった。神聖な祓えの道具であった人形(ひとがた)も「ひいな遊びの人形」となり、「身代わりの人形」と考えられるようになっていった。
江戸時代になって、この「ひいな遊び」は「上巳の節句のひいな祭り」として宮中行事となり、美しく着飾った雛人形に変化し、現在の様式となってきたのである。
人形寺とも百々御所(どどごしょ)とも呼ばれる尼門跡寺院宝鏡寺には、天皇から贈られた京人形の数々が保存され、由緒正しき雛親王飾りなどがあり、この時期に公開されている。
また、「いちひめさん」では人雛(ひとびな)が見られる。
平安時代の貴族の遊びであった「番双六」や「投扇興」を、当時の衣装で楽しむ様子を再現されているが、これが「市比売神社のひいな祭り」である。
いちひめさんには、歴代の天皇・皇女の産湯として使われた名水「天の真名井(あめのまない)」という井戸がある。更に、皇后守護の神社であることから、御所に向かって北向きに建てられているユニークな神社で一見に値する。
さて、江戸時代中頃には、女児の誕生を祝う初節句の風習が生まれ、「雛祭り」がますます盛んになった。宮中や大奥での雛祭りが庶民に浸透していったのもこの頃からである。
雛市(ひないち)は賑わい、競うかのように贅を尽くしたものが作られだした。親王飾りに留まらず、お供の人形やひな道具の種類も豊富になり、豪華絢爛となっていく。その高熱ぶりは、雛祭りの華美を禁ずる令が出されていた記録からも解る。
そもそも、人形(ひとかた)が原点の雛人形は、平安時代は「立ち雛」であった。
男雛は烏帽子に小袖、袴、女雛は小袖に細帯が基本形である。
「立ち雛」から「座り雛」に移行していくのは江戸期に入ってからである。
現在の内裏雛の様式は「寛永雛」の流れを汲んでいるという。
立体的造型で、男雛は束帯姿、女雛は広がった袖に、袴姿となっている。そして源氏物語絵巻のような王朝風になっていくのである。これが「元禄雛」と呼ばれるものである。
華美高級化していく過程で、同じく寛永雛から発展した面長の衣裳着雛は「享保雛」と呼ばれ、その装飾性から町雛として愛用された。
このような雛人形の変遷の上に、雛人形は京人形の主流を占めている。
高い職人技術で細分化された分業で作り上げられた頭、髪付け、着付け、手足などは、有職故実に基づき作られ、古くから公家方からの注文に応じ、多くの満足を与えていた。
十二単衣などにも見られる織物類は高い文化性を兼ね備え、「たかが人形 されど人形」となり、京人形の有職雛(ゆうそくびな)と言わしめているのである。
各々の詳細は他に譲るとして、小生が気になるのが「桃の節句」の桃である。
どうして桃なのか!?
梅宮大社
http://www.umenomiya.or.jp/
流し雛 (下鴨神社)
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/pg209.html
人形寺 宝鏡寺門跡
http://www.hokyoji.net/mein.htm
京人形商工業組合
http://www.kyo-ningyo.com/
特集陳列「雛まつりと人形」2019 ☆ 京博平成知新館
https://www.kyohaku.go.jp/jp/theme/floor1_1/1F-2_20190213.html