秋季一般公開 京都御所の秋 その2
都構想とは言わぬまでも即位礼くらいは
紫宸殿(ししんでん)は、京都御所で最も格式が高い正殿である。
歴代天皇の即位礼は、明治維新後も昭和天皇までこの場所で執り行われてきた。
しかし、今上天皇(きんじょうてんのう)の即位礼は、残念ながら東京で行われた。
京都人にとっては、この場所で行われなかったことが残念でならない。
多くの方が笑われるであろうが、正式な遷都令もないままに、明治天皇は東京へ行かれ、その後の天皇も東京にお住まいになり、東京を皇居とされている。
京都人としては、未だにいずれお帰りになるものと、叶わずとも信じたいのである。
今上天皇の即位礼の折、この紫宸殿に置かれる「高御座(たかみくら/天皇の座)」と「御帳台(みちょうだい/皇后の座)」が、丁重に解体され運び出され、東京の皇居宮殿に据えられ、使用されていると聞く。
現在も京都御所に置かれるその高御座・御帳台は、古の奈良時代や平安時代から受け継いできたものではなく、大正天皇の即位礼に際し、古制(こせい)に則って造られたものであると記されていた。
皇室典範や宮内庁により、即位礼の儀を初めて東京皇居で執り行うことを、手続きとして事無く行われたのであろうから、東京皇居で行う即位礼でお座りになる高御座・御帳台を新調することは、いとも容易いことであったはずだ。
一般感情として、矛盾を感じざるを得ないのである。
門外漢であるゆえ、仔細のことは分らぬが、それほどまでに心を砕いて貰えるなら、京都御所での即位礼を執り行って貰いたかったのである。
また、京都の市民運動としても、そんなメッセージを送ったという話も聞こえてこない。
時の権力が、ご都合主義で執政を行う例は歴史の中にも見られ、現状追認を余儀なくされるのも歴史である。
とはいえ、京都市民が京都に誇りをもてるのは、永き間都であったこと、未だ都の精神を失ってないことであるとするなら、遷都令が布告されてない以上、京都を挙げてメッセージしても良いはずだった。
この紫宸殿と南庭の間に立ち、場の空気を吸い込むと、その思いは更に強くなった。
紫宸殿に目を向けると、平面八角形で、柱と柱の間に帳(とばり)を巡らされた高さ約5メートルの屋形が見える。あの中に高御座があり、その背後の襖は「賢聖障子(けんじょうのしょうじ)」と呼ばれる、中国古代の賢人32人の肖像が描かれていると聞く。
縁の頭上正面中央には、幕末の書家岡本保孝による扁額が掲げられ、高床式神殿造の整然とした檜の木組みを引き締めている。
軒下と対照的にも見えるすのこ縁も実に美しい。
その縁に上る十八段の階段に駆け上がり、その目線から白砂の南庭を眺めてみたい衝動に駆られる。
数多の歴史上の儀式や物語が、この広い南庭で繰り広げられていたのかを想像するだけでワクワクしてくる。
1855年に再建されたという檜皮葺入母屋造の風格に見惚れながら順路に沿って歩くと、紫宸殿の北西裏に出る。
そこは紫宸殿と同じ入母屋檜皮葺の清涼殿で、平安時代の内裏、いわゆる天皇の日常生活の場として使われた御殿である。
紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務の他四方拝、叙位、除目の行事にも使われ、次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降の日常の居所は「御常御所」へと変わっていったという。
現在の清涼殿は1790年に建築され、平安時代のものよりは小さくなっているが、建築様式は平安の昔と同じで古の様子を良く伝えていると説明されている。
例えば、昼御座(ひのおまし)の後方に、天皇の昼の休息所となる御帳台、その帳の前には獅子と狛犬が置かれている。
そして、正面中央の御帳台に向かって右は夜御殿(よんのおとど)で寝室となり、更にその北は、弘徽殿(皇后・局の部屋)となるなどの造りで、床が低く間仕切りの多い構造などである。
また、紫宸殿南庭は「左近の桜、右近の橘」だが、清涼殿東庭は「北に呉竹、南に漢竹(からたけ)」が植栽され、井桁のような四角の籬垣(ませがき)の中に植え込まれている。
向かって左通路寄りに年中行事が記された大きな衝立があったが、それもそれらの名残なのだろう。
東庭の紫宸殿の裏側に沿って順路は御池庭(おいけにわ)へと続く。
紫宸殿裏の戸板が閉ざされていた。
前回公開時には、住吉広行筆の優雅この上ない錦花鳥の襖絵が見られたが、次回への楽しみとなる。
渡り廊下の下を潜ると、左には「小御所」南側の植え込みが連なり、右には「陣の座」を通して、南庭の白砂と回廊の朱の柱を額縁の絵のように見て進む。
その通路を抜けると、右斜め前に「春興殿(しゅんこうでん)」を見て、左手に折れてゆく。すると、視界が広がり庭の緑が一面に広がっているのだ。
御池庭(おいけにわ)は、池泉回遊式庭園で、大小幾つかの橋が架けられている。
最初に目にするのが最も有名な橋で、小御所の前に架かる「欅橋」である。
大方の人が、そこでは立ち止まりカメラを構え、欅橋(けやきばし)を背景に記念写真を撮っている。
庭園一帯は松の緑などが茂り、その姿を水鏡に映し出している。
秋が進めば、その余の木々が多種多様な色づきを見せ競演しあっているはずである。この水鏡のそちらこちらに着色していくかと思うと堪らなくなる。
ましてや、その池の光景はパノラマ状に広がっているのである。
この庭園の美の極致を最高に眺められるのは、背後に控える「小御所」と「御学問所」からである。
その縁に座り込み眺めて観たいものであるが、そこは儘ならない。
今回は、小御所に人形師伊藤久重による管絃の人形飾りが公開されていた。
管絃とは、三管、三鼓、三絃等を合奏する雅楽のことであるが、この御池庭に龍頭鷁鳥(りゅうとうげきしゅ)の船を浮かべて、優雅に「管絃の遊び」をされていたのであろうか。
この日飾られた人形は、左から、龍笛(りゅうてき)・楽箏(がくそう)・篳篥(ひちりき)・琵琶(びわ)・笙(しょう)を奏でる姿で、その右横に鞨鼓(かっこ)・太鼓が並べられていた。
小御所は、御元服御殿とも呼ばれるように、東宮御元服、立太子(りったいし)の儀式など皇太子の儀式が行われた所で、慶応3年(1868年)、「王政復古の大号令」が発せられた夜の「小御所会議(徳川慶喜の官職辞職と徳川家領の削封が決定された会議)」が行われた所として広く知られる場所で、将軍や諸侯と対面される場所として使用されていたところである。
元来、平安朝にはなかった小御所は、1251年の再建時にあらたに取り入れられ造営されたもので、神殿造と書院作りが融合した貴重な建築様式を伝えているものだそうだ。
御池庭を縫い潜るように進むと、「御常御殿(おつねごてん)と御内庭」「御涼所(おすましところ)」を観て、「御三間(おみま)」に向かい、「清所門」へと退出するのが、今回の順路である。
以前の特別公開時には、「皇后御常御殿」「飛香舎( ひぎょうしゃ )と玄輝門( げんきもん ).・朔平門( さくへいもん )」が公開されていた。
御常御殿は、室町時代以降に天皇の日常の生活の場として使われた御殿で、京都御所内では最も広い15部屋からなる建物である。
明治天皇も東京へ遷られるまで、この御殿に住まわれていたところである。
御常御殿に入る通路に枝を伸ばした青もみじが印象的であった。
その鮮やかな緑がいかに清々しいか、その表わしようもない。
御常御殿の前に広がる御内庭もそれはそれは見事なもので、広がる庭園の木々に色づき始めたものを見つけると、秋の訪れを感じないわけにはいられなかった。
更に色づき、黄に紅にと重ねて行く様を思い浮かべると、見頃に再度この場に立ってみたいと思う。
御三間を経て清所門を出るまでに、この春見た櫻たちの前に向かった。
青空の下西日を受けて、楓よりも一足先に、すっかりと秋色を見せてくれていた。