祇園祭 蘇民将来之子孫也
ちまきに付いた札の威力とは
台風一過の雨混じりの宵山で授かった八坂神社の「厄除けちまき」を持ち帰り、玄関口に吊るしていたものと取り替えた。来年の祇園祭まで、我が家の「厄除け」の1年間を担ってもらう願いを込めて吊るした。
そして、17日の山鉾巡行を観覧し、昼食を済ませ、お役御免となった「ちまき」を持って祇園さんの納札所に出向き、摂社「疫神社」にもお参りした。
「ちまき」は笹の葉で巻かれイグサで縛られ束にしてある。
束ねられた「ちまき」には短冊状の札が付いている。
この「ちまき」の短冊状の札に書いてある「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」という文字に、「厄除け」とされる由来が表されているのだ。
この「ちまき」は、笹の葉を開いてもお餅など入っておらず、笹の葉ばかりである。従って、「道喜の粽」や「端午の節句の粽」のようには食べることは出来ない。
数年前より「黒主山」では、生麩でできた食べられるちまきも販売されているようだが、鉾町で販売されている「ちまき」も、門口に吊るすもので食べられない。
鉾町のちまきは山鉾保存に取って大切な財源で、山や鉾ごとに「厄除けちまき」や各々の山鉾に縁があるご利益の護符として買い求められ、家々には吊るされている。
勝運あり、縁結び、安産あり、迷子あり。
どこの鉾町も用意された全部の「ちまき」が完売された張り紙が出されていたのに驚いた。
さて、京都人や賢明な諸氏には説明は不要であろうが、「蘇民将来伝説」に少々紙幅を取らせていただくとする。
八坂神社(祇園社)のご祭神「素戔鳴尊(スサノヲノミコト)」は、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、櫛稲田姫命(クシ(イ)ナダヒメノミコト)を救い地上に幸いをもたらした神様として神話に登場し、斉明天皇二年(656)より祇園の地に祀られたと社伝にある。
その素戔鳴尊が南海に旅していたとき、一人の貧しい旅人のような姿で、将来(しょうらい)家の二人の兄弟に、一晩泊めて貰えるようお頼みになられた。
大層裕福であった兄の巨旦将来(こたん しょうらい)は、その姿を見るなり、早々に断りましたが、弟の蘇民将来(そみん しょうらい)は貧しい生活を送っていたにも関わらず、粟殻を敷き招き、粟の粥で持て成し、旅人を暖かく迎え入れたという。
次の朝、蘇民将来の真心に喜んだ貧しい姿の旅人は名を明かした。
「我はハヤスサノヲの神である。後世に疫病が流行した時、蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰につけていれば災厄を免れることを約束する。」このように言い残し立ち去った。
そしてその後、疫病が流行り、巨旦将来の子孫は死に絶えたが、蘇民将来の子孫は茅の輪をつけ疫病を免れ、代々繁栄し続けたと言い伝えられている。
この故事に因み、素戔鳴尊のご利益の護符とされる「茅の輪」には「蘇民将来子孫也」と記されている。
祇園祭の神事、祭事においても、古来より長らく“蘇民将来子孫也”と書かれた護符が身に付けられているのは、この故事の習わしを守っているからだ。
「茅の輪」は「茅」を束ね「巻」かれたものであることから、「茅巻(ちまき)」と「粽(ちまき)」の音を担ぎ、祇園祭には「蘇民将来子孫也の札をつけた厄除けチマキ守り」をこさえ、門口に吊り下げられるようになった。
各神社で「 夏越祓(なごしのはらい) 」の折に行われる 疫除けの「 茅の輪くぐり 」 の風習も、この 「蘇民将来伝説 」 に由来している。
今宵6時には祇園石段下から鴨川を渡り、寺町「お旅所」に三基の神輿が向かう「神幸祭」を見物することにしている。神輿の担ぎ手達の腰に「蘇民将来子孫也」の護符がありやいなやを確かめるつもりである。
祇園祭ちまき一覧 (KBS京都)
http://www.kbs-kyoto.co.jp/gion/know/know4.html
ちまき巻き (南観音山の1年)
http://www.actside.com/gion/02year/1-4.html
祇園祭あれこれ 経済学 (京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/gion/rensai/index.html