知られざる祇園祭 / 後の祭り
祇園の後祭に全国の祇園祭が大挙動いた
17日御旅所に安置された三社の御神輿が氏子町を練り歩き、八坂神社に戻る神事が24日の還幸祭である。街中では「おかえり」と呼ぶ。夕刻の「おかえり」迄の行事として、山鉾巡行は1965年(昭和40年)まであった。そして、これを「後祭(あとのまつり)」と呼ぶ。
後祭での巡行は山9基であった。しかし、1966年に17日の前祭(さきのまつり)の巡行と統合され、山の巡行は見られなくなったのである。以後、後祭は「花傘巡行」として続行され、鷺舞、棒振り、舞妓さん等が八坂神社より鴨川西へと練り歩き、毎年繰り広げられている。
山鉾巡行が後祭より姿を消したのは、財政的事情によるものだったというだけに、誠に残念なことである。
それから28年後の1994年(平成6年)のことである。後祭は動いた。
折りしも平安建都1200年祭の祝祭空間の時であった。
団塊世代の異業種経営者600名をメンバーとして「京都若衆会」が結成された。
平安京の祇園祭、祇園御霊会の流れを汲む全国の祇園祭を、後祭の巡行に参加してもらおうという企画があった。
「平安建都1200年 全国祇園祭山笠巡行」に「山車(だし)」「屋台」「山笠」「風流物」が大挙した。後祭の都大路は生気を取り戻したかのようで、それはそれは、都の賑わいというに相応しいものであった。
実に70万人を超える人出であったと報じられたことを今も記憶している。
想像いただきたい。前祭の宵山、山鉾巡行の見物客の倍以上の人出なのだ。
この勢いは新たな山鉾を建造するパワーとなり、その秋の「第1回京都まつり」に「平成女鉾」を巡行させるに至った。
祇園祭の山鉾は「女人禁制」が伝統であり、長刀鉾では未だ鉾に女性が上ることもできない。
一方、「平成女鉾」は、曳き手のみならず囃子方も音頭取も、全て女性で執り行われるとした。建造費5000万円は京都若衆会会長北村陽次郎を筆頭に市民の浄財で賄われた。
後祭の活性化を企て、平成の悪霊を払うべく、翌年の後祭の「花傘巡行」に「平成女鉾」を巡行させるべく働きかけられたが、伝統ある保存会の壁は厚く、その後も未だ巡行が見られない。
繰り返すが、神事としての祇園祭は「神輿」である。後祭では「還幸祭」である。
そして、市民に委ねられた御霊会が現在の「山鉾巡行」「花傘巡行」である。観光行事化している祇園祭において、歴史の変遷の中で風流にアレンジされるのはいつのことであろうか。
小生も京都若衆会の一員であったが、格式ある伝統を否定する立場にはない。寧ろ伝統ある京の精神を護り、次代に継承したいからこその思いであったのだ。
1200年祭で為しえた事、為しえられなかった事。歴史が動くまであと100年かかるのだろうか。
あれから11年。
「平安建都1200年 全国祇園祭山笠巡行」の記録を京都のウェブで見ることが出来ないのは何故だろうか。
一市民として「ありがとう。」を伝えたい。
後祭に自費巡行してくださった祭り好きの縁(ゆかり)の方々は、
「小倉祇園太鼓」「大池舞殿祭り」「熊谷うちわ祭り」「犬山まつり」「角館のお祭り」「三熊野神社大祭」「川越まつり」「牛窓祭」「小松お旅まつり」「日立風流物」「日田祇園」「花巻まつり」「足助まつり」「加悦谷祭り」「博多祇園山笠」の町衆の皆さんであった。
神輿渡御・還幸祭 (祇園商店街振興組合)
http://www.gion.or.jp/yasaka/y10.htm
平成6年7月23日、24日 平安建都1200年
全国祇園祭山笠巡行
http://www14.plala.or.jp/kasaiya/akaibusu1.html
財団法人平安建都1200年協会
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/kent1200/kyokai/about/index.html
平成女鉾 清音会
http://www.onnaboko.com/
日本の祭りリンク集()
http://www.d2.dion.ne.jp/~agm/link.html
がっかり女鉾 記者の窓 (京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/journalist/column/97/onnaboko.html