祇園祭 生稚児結納の儀
神の使いよ現代の疫病を祓い給え
祇園祭は7月に始まると言われるが、その序章となる行事は既に始まった。
長刀鉾が今年の生稚児(いきちご)を町内に迎える養子縁組の結納の儀である。
稚児の両親や親族などの稚児家と長刀鉾保存会の役員が向かい合って座り、長刀鉾町代表が「幾久しくお納め下さい」と結納の品を渡すと、稚児の父親は「家族一同、伝統と格式ある長刀鉾の稚児として、一生懸命頑張って務める覚悟です」と返礼する。
八坂神社の神職が家の内外を清めた後、結納の儀は厳かに執り行われるようで、床の間には「祇園牛頭(ごず)天王」と揮毫された軸が掛けられ、神饌(せん)が供えられている写真とともに、毎年京都新聞夕刊で報じられる。
その記事を目にすると、いよいよ祇園祭だなと思う。
山鉾にのる生稚児は鉾のシンボルである。
山鉾の稚児に神霊を降臨させてもらい、その稚児は「神使い」となり、鉾町や国を救い疫病を退散させると信仰されてきている。つまり、「神使い」となる生稚児は、神道に説かれる神霊が宿る対象物となる「よりまし」なのである。
あらゆる物に神霊や精霊や魂などの霊的存在が宿るとする日本の信仰の原点からは、無垢な少年が最大最善の「よりまし」であると考えたに違いなく、選ばれることは計り知れない名誉となっている。
長刀鉾の稚児家の最初の務めは、二人の禿(かむろ)を選ぶことから始まる。
禿は生稚児の補佐役であり、不測の事態での代役を務めるという重責である。
山鉾巡行では鉾の正面の生稚児の両脇を固め、「注連縄切り」の時には鞘(さや)を持ち、「太平の舞」では金団扇を掲げて稚児の動きに同調し舞っている。
かつては船鉾以外のどの鉾にも生稚児と禿がのっていたらしいが、現在継承されているのは長刀鉾だけなのである。なぜなら鉾町や稚児家にかかる財政的な負担から、生稚児は人形に替わっていったのだ。
そもそも、鉾町に生稚児を迎え、巡行する鉾で舞を踊るというしきたりとなったのも、その稚児が「よりまし」となってきたのも、江戸時代以降といわれ定かではない。
京都新聞の藝能史研究会への取材記事によると、「室町時代まで、稚児は専門の芸能者が車舞台の上で舞を演じた。室町末期に芸能者がいなくなり、鉾町の子どもが取って代わった。それから稚児の性格が変わり、意味が付加されていった。人々が民俗的背景で解釈し、つくりだしたもの」と、話している。
更に、「江戸時代中期の文献には、巡行途中の長刀鉾が四条麸屋町で鉾を止め、鉾町の役人が四条寺町付近にあったお社の悪王子社の注連縄を切ったなどの記録が残る。」と。
明治期以降中断されていた「注連縄切り」を、生稚児が執り行うことで復活されたのは戦後のことなのである。
歴史の中で、伝統も移ろい変遷を踏んでゆくのは時の常で、その時代に生きる者の状況と解釈、価値観のありようで形は変わったとしても、疫病退散の町衆の祈りの原点、これだけは変わらない。
綾傘鉾の結納の儀に陪席する機会があった。
洛中絵図や祇園祭屏風にもその姿を残す応仁の乱以前からの歴史ある傘鉾である。山鉾巡行の日には、鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓の囃子方が練り歩き、傘鉾が行列する。その先頭を行くのが六人の生稚児である。
棒振り囃子は、祇園囃子より大きな響きでテンポが早く小気味よく、赤熊(しゃぐま)を被った棒振りの踊りは観客の目を釘付けにしている。
徒歩囃子は山鉾の中でも、唯一綾傘鉾だけである。
江戸時代の古図に残る傘鉾は、何故か御所車風の屋根に風流傘を乗せる引き鉾となっているが、戦火や火災で中断を繰り返し復活させられてきた歴史の中で、その理由を語れるものは残されていない。
休み鉾から昭和54年に復活された棒振りや囃子方、傘鉾が練り歩く現在の形は、原形に従い徒歩囃子で巡行されているという。
綾傘鉾は7月7日の七夕という吉日に、「結納の儀」「宣杖の儀」「御千度の儀」を八坂神社で執り行っていた。
常盤御殿の座敷の間に入ると、一堂が座し緊張の空気が流れている。
御殿の床の間には「牛頭天王」の軸が掛けられ、下座には綾傘鉾の幟旗が立てられていた。長刀鉾の結納の儀の掛け軸と一文字が違うが、同様に神饌(せん)が供えられている。
襖が開いた。
緊張感の溢れる父親の顔、あどけなさが窺える稚児もすまし顔で後に着いている。
父親は紋付袴の正装で、幼子は真白く塗られた顔に、金の烏帽子を頭に被り、薄物の狩衣姿である。
鉾町役員の前の緋毛氈に正座し、父親は携えた支度金目録を差し出し、扇子を前に整え深々とお辞儀をする。家で何度も練習をさせられたであろう稚児も、扇子を前に整え父親につくように平身低頭する。
正装の鉾町の役員、世話方に囲まれた広間、その真ん中の場所に進み出て執り行われているのだ。
こんな厳かな挨拶は生まれて初めてだろうが、見ていて実に気持ちが清々しくなる。
差し出された支度金目録を丁重に収めた鉾町の役員は、三宝にのせられた鉾町の請け書と稚児餅を差し出し、父親は緋毛氈からにじり出て収める。
襖を出て控えの間へ退席するまで、見ている小生も咳払いひとつできない空気であった。
入れ替わり次々と6人の稚児との結納のあとは、養子縁組の固めの盃である。
再入場した稚児らは父親を背後に横一列に座し、前に配された白木の片木(へぎ)から朱漆塗りの盃を手に、お神酒が注がれる。
飲み干すと、その時から鉾町の稚児となるのである。
これより社参となる。
常盤御殿を出ると、八坂神社南門より社参の行列は本殿に向かう。
神官の先導に従い、幟旗を先頭に、鉾町の稚児には差し掛け傘がさされての行列である。
本殿にて祝詞奏上のあと、「宣杖」の書状「稚児守り」が宮司より綾傘鉾の稚児に手渡されると、八坂神社の祇園祭の生稚児となる。
これよりは「神の使い」として、祇園祭に携わることとなる。