源氏物語を歩く
紫式部は物語をどんな背景で着想したのだろう
京都文化博物館で開催されていた源氏物語千年紀展が一昨日幕を下ろした。
源氏物語といっても、光源氏の名と色男であったことしか知識は持ち合わせておらず、著者とされる紫式部となると皆目話もできず、2千円札の裏の源氏物語絵巻に肖像画があること、ユネスコの偉人暦に日本人としてただ一人名を連ねる著名人であるとしか知らない。また、今までさして興味も抱かなかった。
しかし、千年紀展での展示物を目の当たりに見るや、そうはいかなくなった。
堪能というレベルまで鑑賞させてもらい、紫式部自身のことを知り、物語を深く知り、書き記された物語の場所へ赴き、往時の空気を吸ってみたくなった。
描かれた王朝文化の屏風絵の舞台が、著者縁の場所が、全て京都にはあるのだから、訪れないわけには行かない。
その縁の場所を巡るのに重宝なものが既に用意されていた。
源氏物語千年紀委員会発行の「源氏物語千年紀記念 特別観光パスポート」と題する、特典付ガイドブック(A5版24頁300円)である。
54帖の内から24のストーリーと11のエピソードが、縁の地とリンクされ紹介されており、縁の地14箇所での割引、プレゼント特典も付いている。
小生は桐壺源氏にも至らぬ源氏ビギナーゆえ、さしあたりこれを制覇しながら、源氏物語の各帖を読み解いていくつもりである。小生の源氏物語が如何様な結末と結論を見出すのか、吾ながら楽しみである。
まず、縁の地は、筆者紫式部に関するところと物語の舞台に関するところとに大別できる。
前者でガイドブックにあるのは、住まい跡とされる御所東梨木神社向かいの「廬山寺(ろさんじ)」に、源氏物語起筆着想の地とされる大津の「石山寺」である。
その他小生の記憶に残っているところでは、堀川通北大路を下る東側にある「紫式部墓」に、その西は千本鞍馬口下る西は「紫式部供養塔」のある安部晴明開基の「千本ゑんま堂」である。
どうもガイドブックでは物足りなくなり、生涯を紐解いてみると、記録に残る定かな生没年は不明であるが、推定で天延元年(973年)頃生まれで、37歳の生年をもって、長和五年(1016年)頃没したという。
父は、藤原北家の一党藤原為時で、東宮の読書役を勤め花山天皇在位2年の間には蔵人を経て、昇殿が許される式部大丞 (しきぶだいじょう)にまで出世した文官であった。
その中級貴族の三児の次女として生まれ育ったのが紫式部(本名不詳)で、花山天皇の出家(986年)とともに失職した父のもとに娘時代を過ごし、その10年後 越後守に任じられた父と越後に2年間を暮らした。
【参照】越後守
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD
その父の退位後、式部25歳の長徳四年(998年)頃、山城守藤原宣孝と結婚した式部は、一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)を出産することとなった。その地が正に現廬山寺のあるところである。
親子ほども歳の差がある藤原宣孝とは死別することになり(1001年)、結婚生活は長くはなかったが、越後に行くまで育ったこの地に暮らした。この時代は通い婚であるから、それまで暮らし育った妻のところへ夫が出向くのが一般的なのである。
そして、賢子に手が掛からなくなった寛弘二年(1005年)12月29日より、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師役として宮仕えするようになる。
女子が漢籍を読むと不幸になると言われた頃に、「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)」と異名されほどに漢文に精通した才は、一条天皇をして認めさせるところであった。
廬山寺源氏庭の夏は、紫の桔梗が静かに咲いている。この桔梗が源氏物語に出てくる朝顔の花であるという。白砂と苔で作庭された平安朝の庭に咲く紫の花を眺め、紫式部の想いに浸ることから始めて見ることにしたい。
さて、源氏物語の文献初出が長保3年(1001年)ともいわれるが、物語怒筆の着想伝説の石山寺にはいつ頃参詣していたのであろうか。夫が病死した悲しみを紛らすために書いたとも言われるのだが。