重陽の節句に烏相撲
奉納相撲で大魔をはらへ
2020年9月9日(水)
上賀茂神社烏相撲は中止、重陽神事(本殿祭)は斎行
松尾大社八朔相撲なども中止がほとんどとなっています。
秋祭りめぐりを組むべく祭事を調べていて、初めて気づいたことがある。何かというと、相撲が行われていることである。
京都では大相撲の本場所がないので、国技とは思えども京都には縁がないと思っていた。
ところが、奉納相撲と云う形で行われているのである。
挙げてみると、松尾大社の八朔祭(9月第1日曜日)での八朔相撲、上賀茂神社の重陽の神事(9月9日)での烏(からす)相撲、三宅八幡宮の放生会(9月14日)でのちびっこ相撲大会、大原野神社の御田刈祭(9月14日)での神事相撲と奉納相撲、平岡八幡宮の例祭(10月5日)での三役相撲、などである。
相撲の歴史を調べてみて分かった。その様子は埴輪にも残っており、平安時代には相撲節会(すまひのせちえ)なるものが宮中の儀式と定められ、七夕の節句に豪華絢爛に催されていたようだ。
少々はしょり要約すると、相撲とは天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、神前にて力を捧げ、敬意と感謝を示す古来よりの神事であったのである。
奉納相撲はその名残で、現在の大相撲興行にも見られるように、勝者の舞を演ずる「弓取り式」や、地面の邪気を払う「四股(しこ)」も、その名残である。
古墳時代より、公卿社会でも、武家社会でも相撲は重んじられ、昭和11年には小学校の授業に取り入れられている。現在の大相撲のように興行として行われだしたのは江戸時代からで、祭事神事として奉納相撲が行われていた時代の方が長いのである。
折りしも、今日、上賀茂神社にて「烏相撲」なるものを見た。
菊の花を本殿神前に供え祝詞が奏上され、細殿では十二単姿の斎王代を前に、地元の子供達による奉納相撲が行われたのだ。
まさしく、相撲の原点を見せ付けられた思いで、目から鱗が落ちるとはこのことである。
古来、上賀茂神社の氏子地域の住人を「烏族」と称していたところから、邪気を払う菊の節句に奉納されるこの相撲は「烏相撲」と呼ばれている。
烏相撲と呼んでもカラスに相撲を取らせるわけではない。相撲は氏子少年力士達である。
祈祷のあと本殿より場所が移され、斎王代は細殿に、宮司、権宮司は、その東西に着座する。
次に、細殿の前庭にある西の立砂の前、東の立砂の前に別れて力士が座り、立砂の左より禰宜代(ねぎだい)、右より祝代(ほうりだい)と称する神職によって、勝利への呪術といわれる「地取」が行われ、本日の力士の差符(取組表)が奏上される。
そして、烏が登場するのだ。それは、神官扮する烏帽子に白張姿の二人の刀禰烏(とねがらす)である。
刀禰は祭具を幄舎(あくしゃ/覆い屋根)から順次持ち出し、烏の飛び跳ねる動作を真似て、横飛びでピョンピョンピョンと三々九度の跳びにて、弓矢と太刀を立砂に立て捧げた。そして、円座に腰を下ろし、西の禰宜方(ねぎかた)の刀禰が扇を使い、「カーカーカー」、「コーコーコー」と、続いて東の祝方(ほうりかた)の刀禰も同じように、「カーカーカー」、「コーコーコー」と、これも三々九度で烏の鳴き声を真似た。
そのあと、刀禰が幄舎に弓矢と太刀を持ち下って、いよいよ少年力士の取り組みとなった。好天の下弾ける様に元気な少年力士の姿に、斎王代も思わず噴出していた。
全ての取り組みが終わった正午過ぎには、参詣者に菊酒が振る舞われた。
これらは、邪霊払いの儀式そのもので神事として行われ、奉納されているのである。
今日ばかりは少年力士ではないのだと気づいた。言い直さねばなるまい。相撲童子なのである。
この烏相撲は、上賀茂神社の祭神ゆかりの賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身と語り継がれる「八咫烏(やたがらす)」の故事と邪気払いの相撲が結びつき、行われていると聞いた。
重陽の節句に行われる無病息災、延命長寿、悪霊退散が祈願されるお祓いなのである。
京都と相撲とは縁がないどころか、えらく縁の深いことが分かった。
時代とともに変わり、スポーツ相撲と化してきた大相撲協会も、きな臭い話もそこそこに、上賀茂神社へ大挙し、お祓いを済ませ、立砂の前で奉納相撲を取るのが賢明ではないだろうか。
9月の行事 上賀茂神社
http://www.kamigamojinja.jp/event/sep.html