足利将軍家が京にもたらしたもの
現代文化の精神基盤は臨済宗に連なっているのか
平安京よりの仏教勢力である比叡山天台宗延暦寺に対して、足利将軍家は禅宗の新興として京都五山を制定し「臨済宗」を保護発展させた。
平安時代においても、奈良平城京より遷都された頃には、「天台宗」は新興仏教であり、桓武天皇により庇護されたものである。政権宗教が一体となって政治を司っていた時代であるから、当然の常套手段ではある。
中国禅宗五家の内から渡来した、「座禅」の曹洞宗は地方豪族や一般民衆に広まり、「渇」の臨済宗は足利政権に保護され武家に支持され、武家文化構築に重んじられた。
臨済宗14宗派のうち京都にある本山寺院は、京都五山別格の南禅寺、京都五山一位で世界遺産登録の天龍寺、金閣銀閣を塔頭に有し足利家ゆかりの相国寺、日本最古の禅宗本山寺院の建仁寺 、いまなお25ケ寺の塔頭を有する東福寺、茶の湯と関わりのある多くの文化財を誇る大徳寺、末寺3,400余ヵ寺を有する臨済宗最大宗派の妙心寺、の7本山である。
他に建仁寺末寺の高台寺、法観寺(八坂の塔)、妙心寺派の末寺で世界遺産登録の龍安寺など、京都はテーマパーク臨西宗観光会社ともいえる、寺院施設が活躍している。
それらの寺院がもたらした禅文化を垣間見ると。
知識よりも「悟(生物の持つ本性である仏性に気づくこと)」を重んじる禅宗は、言葉や文章で伝承されたり、教えられたりは為されない。つまり現代的なマニュアルは存在しないのである。
修行は禅師の元で、「坐禅」「読経」「公案」「作務」をひたすら行うだけである。
「公案」とはいわゆる禅問答のことで、「知的な理解を超えた話を理解すること」であるという。
「悟」は気づく、察する、感じるものあるから、その境地は漢詩、絵画や振舞いなどを通じて表現されたり、味わったりする文化が攻勢となる。室町文化はまさにそのものだ。
義満の足利全盛時代には、五山文学である漢詩漢文学は重視され、五山版と呼ばれる木版印刷が生まれ、禅僧春屋妙葩(しゅんのくみょう)刊行本に京都発の出版のルーツが見られる。
日本水墨画の全盛期もこの時期である。東福寺の画僧吉山 明兆(きつさん みんちょう)の「五百羅漢図」や周文の「寒山拾得図」はご覧の方も多いだろうし、相国寺の画僧雪舟に漢画の祖と仰がれた如拙(じょせつ)の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝 妙心寺退蔵院所蔵)も足利北山文化の代表作である。
更に、観阿弥・世阿弥により「猿楽能」が大成され、能面彫刻も共に隆盛を誇ることになった。
前段の北山文化(金閣)に対して、8代将軍義政の時代には侘び・寂びに通じる美意識で東山文化(銀閣)と呼ばれたものがある。
大徳寺禅と茶の湯を融合させ、後に千利休をして茶の湯の開山と言わしめさせた村田珠光(むらたじゅこう)の茶道。
六角堂池坊の供花を立花として極めた池坊専慶により大成した華道。
三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)を流祖とする御家流香道の大成。
龍安寺枯山水に代表される庭園。
建築史上名に残る和風住宅の原型といわれる東求堂に造られた書斎に代表される書院造建築。日本水墨画を大成させた雪舟や、水墨画と大和絵を融合させ土佐派の祖となった土佐光信。
足利幕府御用絵師となり大和絵と中国水墨画を統合したと評価され狩野派の祖となる狩野正信などの絵画の完成。
このように多様な芸術が開花し、禅の精神と合流し、道として極められる時代であった。
片や長びく応仁の乱(1467年)の戦火の下、どうして東山文化が熟成されていったのかが不思議でならないが、禅文化が花開き京都に残した資産は、計り知れない価値があることは間違いない。
色づきはじめた紅葉と禅寺の背景を、そろそろ伺い見に出かけても良い頃になって来たようだ。
財団法人京都古文化保存協会
http://www.kobunka.com/index.html
室町時代の社会と文化
http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp33.html
室町文化の不可欠要素としての男色
(花園大学五山文学研究所)
http://iriz.hanazono.ac.jp/k_room/yoshi0314.html