あじさいから蓮へ
泥沼の根か、水面の清楚な花か、何れか真姿
6月下旬から蓮の開花の声を聞き始めるが、我慢に我慢を重ね、夏越祓いが済むまでの花見は紫陽花に桔梗と決めている。
祇園祭の吉符入りを聞いて、初めて蓮の花つきの問い合わせを始めだし、街なかで山鉾建てが始まり、中御座の神輿洗を四条大橋に見物に出掛けた翌朝からが、毎年の小生の蓮見の解禁としている。
それより早く出掛け、咲く花の数に無念な思いをしたことがあってからの小生の決め事である。
その日がとうとうやってきた。
そんなに急がずとも、8月でも見られるではないかとの声もある。
しかし、京都の蓮の綺麗どころは鉾建てから巡行の頃が一番だと思っている。
なぜなら、その頃の蓮の花や葉に初々しさがある。妖しいほどの美しさの前、その初見の感動を、今もこれからも、大事にたいと思っている。
さて、宇治の三室戸寺では、7月初旬に「ハス酒を楽しむ会」が開かれる。
あじさい寺とも、蓮寺とも称される三室戸寺の蓮園の鉢は250に及び、京都随一を誇っている。本堂前に広がる光景は極楽浄土といわれるが、なるほどと頷ける。
同じ見るのに「鉢ではいかがか」という向きには、嵯峨は天竜寺参道の勅使門近くの放生池が良い。
群生した蓮の葉が池一面を覆い、その中に石橋が浮かぶ。時折の風に揺れる蓮の葉の舞い様も強く印象に残り、白色の蓮の花に混じる薄桃色の花が一層清楚に見える。
鉢も池も両方見るなら、花園にある関西花の寺第13番の法金剛院がお奨めだ。
100品種を超える三室戸寺には及ばないが、同様に蓮の寺の異名を持つだけあって、世界各地の蓮を集め、70品種の蓮見が楽しめる。
更に、法金剛院が他の二寺院より優位である根拠がもう一つ。侍賢門院が極楽浄土として造園させた池泉廻遊式浄土庭園で、そこを歩きながら鑑賞できる点が挙げられる。
華麗で優しく清楚な花々が揃い、清々しい気持ちにさせられるのだ。
毎年催される「観蓮会(かんれんえ)」は、早朝7時から始まる。
「この三ヶ寺は混雑し過ぎる」という方には、60鉢を独り占めできる立本寺(七本松仁和寺街道下る)、大覚寺大沢池(嵯峨大沢町)、ピンクの八重咲きが見られる御寺観修寺(山科)などはいかがだろうか。カメラ好きに嫌われる、三脚禁止などとの制限がされてないところだ。
蓮の花が、これほどに小生を虜にするのは何故なのだろうか。
泥沼に根を張りながら、華麗で清楚な花を水面に咲かせる姿が、俗世に生きる小生に何かを訴えている所為なのか。
死後の事など未だ想像だにしない小生の、極楽浄土に往生したいという欲求の暗示なのか。
煩悩にもがく小生に、仏花を見せて「さとり」を示唆してくれているものなのか。
寺院の仏前で、「常花(じょうか)」と呼ばれる金色の木製の蓮華や、仏像の如来や菩薩が座る「 蓮台 ( れんだい )」を、数多く見てきたが、蓮の花を追うような感覚は未だかつてなかった。
蓮の花は、去年と同じように今年も、小生に何かを見せようとしている。
大方の花は、花が終わり実を結ぶ。蓮は、その花を咲かせるとき既に実を実らせ、その終わりに既に種を残している様だ。それは何の暗示なのだろうか。
まさに、人の生き様、生きる目的のように思える。
さらに、その種は腐ることがないことも示した。小生の生年の時であったと聞き及ぶ。
東京大学検見川農場で発見された弥生時代の蓮の種子が、2000年の眠りから覚めて発芽したという。その種に光と水が与えられたからだ。その蓮は大賀ハスと命名され、各所で毎年花を咲かせているという。
小生は死後、朽ちない何を残せるだろうか。
三室戸寺
http://www.mimurotoji.com/
天竜寺
http://www.rinnou.net/cont_03/10tenryu/index.html
法金剛院 (関西花の寺二十五ヵ所)
http://hana25.com/?page_id=225
大覚寺
http://www.daikakuji.or.jp/
京都植物紀行 (タキイ種苗)
http://www.takii.co.jp/mailmagazine/0407/kyoto.html