三船祭 車折神社
山野の葵、賀茂の水面に船遊び
葵祭が終わると、次の日曜日が「三船祭」である。同日の年もあった。
王朝絵巻行列が皐月の中頃にニ度見れるわけだが、三船祭では往時を偲ぶ巡幸と船遊びが執り行われている。
嵐山渡月橋や大堰川を舞台に行われる絶好のロケーションはこの上なく、この日の嵐山を観光客の方々にだけお任せしておくのは、あまりにも勿体無いと言いたい。
5月14日の車折神社例祭の延長神事として、昭和御大典を記念して昭和3年より始められた新しいお祭りだが、毎年、約10万人もの拝観者で賑わっている。
願わくば、祭への篤い寄進者により、京都を代表する祭へと更に盛り上げて貰いたいと思う。
小生の記憶にある最初の「三船祭」は、仁和寺宸殿で見た襖絵である。
宸殿の襖絵は大和絵で、春の桜・夏の賀茂の葵祭・秋の嵐山の三船祭・冬の交野の鷹狩の様子が、見事な筆さばきで描かれていた。
それまで、嵐山での船遊びの宴などは知っていても、三船祭という祭のことさえ知らなかった。
葵祭と並び描かれた「三船祭」の優雅な襖絵は、最後の宮廷画家と言われた原在泉(はら ざいせん/ 1849〜1916年)によるものだったが、仁和寺の見所の一つに挙げてもよいと思う。
画家を調べて見ると、有職故実に詳しく、作品に「明治天皇御大喪絵巻」、「月ヶ瀬梅林図」などがある原派四代目の日本画家で、宮中の御用を務める明治期の京都画壇の中心的な存在であった。
昭和3年より始まった三船祭を、大正5年に他界した画家原在泉が描けるものではない。つまり、画家原在泉は三船祭に通じる故実を掴んでいたのであろう。
仁和寺の御殿は江戸時代初期の再興の際、御所の御常御殿が移築されたが、明治20年に火災焼失し、現存の建物は技術の粋を極め、明治から大正にかけて再建された重要なものだという。
詳細に調べたわけではないが、移築された御常御殿の襖絵からの題材であったろうとの推察は無謀ではないだろう。
車折神社の三船祭の由来を社伝に頼ると、
「昌泰元年(898年)長月21日 宇多上皇が 嵐山に御幸の際、大堰川(おおいがわ)で御船遊びをしたことが始まりとされています。 その後のたびたびの御船遊びで 詩歌、吟詠、管弦、舞楽など 様々な御遊びがあったことにより、例祭の延長神事(行事)として、昭和御大典を記念して、昭和3(1928)年より始められた祭りです。
毎年5月第3日曜日に 嵐山の大堰川において 御座船・龍頭船・鷁首船(げきすせん)など20数隻を浮かべて、 御祭神である平安末期の儒学者、清原頼業公(きよはら・よりなり/1122〜1189年)が活躍された平安時代の船遊びを再現する祭りです。」と。
仁和寺は、仁和四年(888年)に完成し、宇多上皇の御殿と寺院であった。その頃三船祭と呼んでいなかっただろうが、その宸殿の障壁画に船遊びの図が描かれても、何の不思議もない。否、むしろ自然である。
その大堰川での船遊びは、貴族社会で受け継がれ、平安時代の象徴的な文化となり、船上で宴を催し詩文を作り、奏楽を楽しんだのである。
三船とは、文字通り三隻の舟のことで、宇多上皇が、「和歌」「漢詩」「奏楽」に長じたものを、それぞれに乗せて、御船遊びに興じたところからの呼称なのである。
夏の季語に、船逍遥(ふなしょうよう)、船遊山(ふなゆさん)があるが、その後、如何に盛んであったかを示す往時の名残といえる。
そんな貴族文化を眺めんと、車折神社が再現してくれる、祭神清原頼業公への奉納行事三船祭へと出掛けた。
頼業公は、平安時代後期院政期の儒学者で、康治1年(1142年)少外記(しょうげき)に任じ、保元1年(1156年)記録所寄人・助教となり、仁安1年(1166年)頃大外記(だいげき)となり動乱期の局務の中枢にあたり、この間藤原頼長に認められて講論の一員に加わり、頼長の長子兼長の師となっている。
そもそも清原家は、平安時代には中原家とともに大外記を世襲していた。太政官のなかには、主に財政面を扱う弁官局と、人事や詔勅関係を扱う外記局とのふたつの事務局があった。この外記局の上位の職が大外記である。
治承3年(1179年)高倉天皇侍読(じとく/天皇の側に仕えて学問を教授する学者のこと)の後、九条兼実(かねざね)に「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられる程の信任を得て、文治2年(1186年)兼実が摂政となるや兼実の家司として常時補佐し、文治3年記録所復活とともに寄人(よりうど/事務執行官吏)となり、後白河院の院宣により政策を上奏するほどであった。
「春秋経伝集解」や清原家所伝の経書に講読・加筆・校訂したものも多く、経学史上重要な人物で、明経道(律令制の大学寮において儒学を研究・教授した学科)の中興の祖として仰がれたという。
文治5年(1189年)に逝去すると、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、多くの桜が植えられ廟が設けられた。
やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれる。
その後の鎌倉時代、後嵯峨天皇(1220〜1272年)が嵐山の大堰川に御遊幸のある日、この社前において突然牛が倒れ、牛車を引く轅(ながえ)が折れ動かなくなったことがあった。
その原因となった門前右側の石を「車折石」(くるまざきいし)と呼び習わし、神威を畏れた後嵯峨天皇は、「正一位車折大明神」の神号を贈られた。
それ以後、宝寿院は「車折神社」と称することになったという。
さて、おでまし式を済ませた一行が、出発の準備に気ぜわしそうで、境内が賑わしくなってきた。
白布で囲われているのは御神霊を携えた宮司であろう、厳かに運ばれ御所車の後部に御神霊が遷されている。その白い布は絹垣(きぬがき)と呼ばれている。
列を整え巡幸が始まる。手元の時計は午後1時を指していた。
第一鳥居から、神官・幟・牛・舞人(まいびと)・伶人(れいじん)・稚児・花車・御所車・荷車の順に列をなし、三条通を西へ、パトカーの先導と後続で嵐山へと進むのである。
路頭の道中、極楽に棲むと言われる人頭鳥身の迦陵頻伽(かりょうびんが)姿の舞人に、うっとりと目を奪われてしまった。
渡月橋を渡り、1時40分中ノ島公園剣先に到着すると、それぞれ乗船し、待機の供奉船とともに2時より船遊びが始まる。
神殿に設えられた御座船(ござぶね)にはご神霊が坐し、神主と舟人(ふなびと)が乗船すると、幟を立てた小船に従い大堰川の上流へと出航した。
この御座船を追うように龍頭船(りゅうとうせん)・鷁首船(げきすせん)と、20数隻の各供奉船は進み、御座船の前にて、次々と芸能が奉納披露されつつ、大堰川の上流下流を2時間に亘り船遊びするのである。
御座船を追うように、慌てて中之島公園剣先から西岸上流へと場所を移動した。
公家や白拍子を乗せた今様船(いまようぶね)が見えた。
舞楽が披露されるのは、舞人や伶人を乗せた龍頭船である。
迦陵頻・胡蝶の舞・蘭陵王の舞が見れるはずである。
鷁首船では献茶式が執り行われ、風車に吹流しをつけた扇流船(おおぎながしぶね)からは、神社に納められた扇子を、芸能上達を祈りながら芸舞妓さんにより優雅に流されていた。貸しボートや岸辺からは、流れる扇にご利益を請う人で賑わしい。
そのほか、常磐津船、小唄船、長唄船、謡曲船、糸竹船、祇園連船、俳諧船、献酒船、絵船、稚児船と、様々な奉納船が船遊びを見せている。
嵐山の翠緑を反映せしむ麓の大堰川にあって、平安王朝絵巻さながらの無比なる妙趣を示しているように感じる。
ただ、カップルを乗せた貸しボートが艶消しで玉に瑕であるが、観光地のご愛嬌だと思い、声を抑えた。
午後4時、絹垣に覆い隠されたご神霊が東岸に上がり、渡月橋袂にある頓宮に入られると、お祓いが行われ、三船祭の幕が下ろされた。
大宮人は、邸内の池に舟を浮かべ、四季折々に管弦の宴を催したというが、それほどに優雅な粋人気分にさせてくれるところなどない。
往時の面影を残しているのは、大堰川の三船祭なのであろう。
近々に仁和寺宸殿の障壁画を、もう一度見たくなった。
(平成27年5月加筆)
平成26年三船祭は豪雨被害や資金難により中止となったが、翌27年、井筒八つ橋の津田純一さんを会長に三船祭保存会が結成され、祭礼行事が復活となった。その再スタートには、一般公募の女性が清少納言に扮し、十二単衣姿で華を添える。
当日、清少納言役は神霊の座す「御座船」に乗船し、大堰川に扇を流す。
清少納言は車折神社の御祭神と同族(清原氏)であり、境内の「清少納言社」に「才色兼備」にご利益のある神様として祀られている。