平清盛 縁の地をゆくその五 北向山不動院
物の怪退散祈り、一願の護摩。
石清水臨時祭で舞人に抜擢された12歳の清盛は従五位下を叙任していたが、祇園女御の後押しによる異例の出世であったのだろう。
鳥羽院政となって、父忠盛が殿上人の正四位下となったのが37歳、清盛の数え年15歳の時である。
その3年後の保延元年(1135年)、清盛は従五位上から従四位下の位階を、18歳で拝した。
それは、忠盛による海賊追討の功によるもので、晴れて清盛の初陣を祝うものであった。
位階とは律令制の官吏における個人の地位を序列・等級を用いて表わすもので、国家に対して勲功・功績のあった者に授与されていた。その階級は正一位から少初位下(しょうそいげ)までの30階に分れていた。
つまり、18歳の清盛はこの時、上から10番目の位に就いたことになる。
しかし、自らが公卿と称される三位以上の位階を得ることを考えていた父忠盛には、朝廷から昇進はなかった。未だ武士としての生まれを蔑まれ、公卿と対等となる権力の座を得られない朝廷の犬のままだと、清盛は自らの褒美を喜ぶよりも落胆したことであろう。
清盛が武士として初めて、正三位の公卿と対等となるのは永暦5年(1160年)、後白川院政の御世となっていた43歳の時で、初陣より25年後のことである。一方、父忠盛は従三位を得ないまま、鳥羽院政仁平5年(1153年)、享年58歳で死去していた。
平家の台頭の兆しは、忠盛の築きあげた基盤に、清盛の初陣に始まる戦功に見られるともいえる。
長引く飢饉に苦しむ民は飢えから盗賊となり、取締りの手が厳しくなると、取締りの手薄な西海で海賊となる者を産み出していた。国々から都へ運ぶ米荷の船を急襲するのである。都に米が届かないのは朝廷にとっては一大事となるため、当然の如く追討使が差し向けられる。
摂政藤原忠実が源氏一門に討伐させようと目論むが、鳥羽上皇は平家一門を重用し、西海の海賊追討を任じるのである。
その頃鳥羽離宮では、寵愛していた待賢門院璋子(たまこ)にもモノノケが潜むと感じた鳥羽上皇が、入内した美福門院得子(なりこ)に次第に傾くのである。
長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受け、得子は保延元年(1135年)12月に叡子内親王を出産、従三位に叙された。
その最中、白河法皇の亡霊、璋子のモノノケに悩み、怒りの続く鳥羽上皇は、善行を積もうという気持が高まり、善縁を結ぶべく鳥羽離宮東殿に御堂(安楽寿院)を建立し、保延3年(1137年)に落慶させたのである。
そして、保延5年(1139年)5月18日、鳥羽上皇と得子との間には待望の皇子体仁(なりひと/近衛天皇)親王が誕生した。同年、清盛は高階明子との間に次男清次(きよじ/のちの基盛)が誕生している。
躰仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子を凌ぐ権勢を持つようになった。そして、保元の乱、武家政権の蔭の立役者となるのである。
その舞台の中心となったのが鳥羽離宮で、白河法皇の時代より、京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地となっていた。
鳥羽殿を構成する南殿・北殿・田中殿・泉殿・東殿などの御所には、それぞれに証金剛院・勝光明院・金剛心院・成菩提院(じょうぼだいいん)・安楽寿院の御堂が附属し、広大な苑池を持った庭園が築かれていたことが、1960年より始まった発掘調査で解明されている。
その結果は、安楽寿院境内に設置された鳥羽離宮跡配置図に表わされていた。
鳥羽南殿北殿を営んだ白河法皇は、泉殿あたりの域内に自らの墓所とする三重塔を、生前に造営している。崩御のあと、火葬された遺骨は北区の香隆寺に一旦埋葬され、三重塔に付属させた御堂成菩提院の落慶とともに、遺言通り三重塔内に改葬された。
今となっては、既に三重塔は見られず白河天皇成菩提院陵として、33メートルの正方形の御陵として守られている。
そして鳥羽上皇は、白河法皇の例にならい、皇子躰仁親王(近衛天皇)の誕生と同年の保延5年(1139年)、東殿の安楽寿院に本御塔(ほんみとう)と、続いて久安4年(1148年)頃に新御塔(しんみとう)を建立したのである。
いずれも三重塔(新御塔の多宝塔説あり)で、新御塔は皇后となった美福門院得子(1117〜60年)の墓所として造営されたのである。しかし、得子は自らの遺骨は高野山紀伊最上廃寺への埋葬を望み、遺言により、北区紫野の知足院に埋葬されていた息子近衛天皇(1139〜55年)の遺骨を、長寛元年(1163年)新御塔へ改葬させたのである。
鳥羽法皇の眠る本御塔は永仁4年(1296年)に火災で焼亡し、現在の瓦葺宝形造の法華堂が御陵として元治元年(1864年)に造営された。
一方、近衛天皇の眠る新御塔は、慶長元年(1596年)山城大地震で倒壊後、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼によって、多宝塔として再建された。
その宝形造の鳥羽天皇安楽寿院陵の斜め東向かいに、財団法人京都市埋蔵文化財研究所の作業所があった。引き続き、発掘調査が行われているのだろうか。
更に、その道を北に行くと、鳥羽天皇安楽寿院陵の北辺の隣にある老人ホームの前に、配置図にあった五輪塔を見つけた。弘安10年(1287年)の銘があるが、一体誰の供養塔であろうか。
次に向かうのは、北向山不動院(きたむきざんふどういん)である。
境内への出入り口は、西からなら新油小路、南からなら新城南宮道、東からなら安楽寿院の境内西端を出た住宅街を通り抜けての三方にある。
境内に入ると、目を奪われんばかりに、到るところ憤怒の形相の不動明王の石像が林立していた。
この北向不動院は、大治5年(1130年)に建立されているのだが、この年は白河法皇の崩御の翌年で、崇徳天皇即位7年目にして、鳥羽上皇院政の初年となる年なのである。
鳥羽上皇自らが「北向山不動院」の名を贈り勅願寺とし、憎き物の怪白河法皇亡き世の、鳥羽上皇のわが世となった第一番に建立した寺院となった。
計り知れぬほどの、さぞかしの思い入れがあったはずである。
北向きに建てるとは、崇徳の内裏に向けてご本尊不動明王を鎮座させることで、王城鎮護を意味する。
その王城鎮護とは、院政のわが世、わが身の鎮護の一願ではなかったのだろうか。
北向不動と得子に力づけされ物の怪と闘う鳥羽上皇も、不条理の狭間でおもしろう生きようとする平清盛も、白河院の物の怪の血が流れているのだとすると、それぞれの物の怪の血の眠りと騒ぎが、繰り返し交錯する一生を送らせたのではあるまいか。
鳥羽も清盛も、外からの不安や恐怖よりも、内から湧き出す不安や恐怖を防ぐ術が見つからなかったのであろう。
北向不動は、そんな弱い自分に討ち勝つ、一願を叶える導きをするところであったのかもしれない。
鳥羽上皇の誕生日である正月16日には、大護摩供が今も厳修されている。
参詣すると一つの願いだけなら叶うと伝えられ、「一願の護摩」と呼ばれている。