平清盛 縁の地をゆく その一 鳥羽殿
大革新は河原の納屋から始まった
平成24年のNHK大河ドラマ「平清盛」の放映が始まった。
第一回放映の一日前に、京都では、放映記念として、「第46回 京の冬の旅 うるわしコース」の定期観光バスが走った。そのコースのテーマは「平安の覇者 平清盛ゆかりの人物をたずねて」である。
「六波羅蜜寺」「長講堂」「長楽寺」「平等寺」を訪ねるコースで、清盛と縁の人物に関わりのある非公開文化財の特別公開を鑑賞するプログラムとなっている。期間中に是非乗車して見たいと思う。
平清盛(1118〜1181年)が活躍するのは平安時代後期となるが、ドラマの第一回は清盛出生の下りからである。学校で清盛の父は忠盛と習ったが、ドラマでは「ふたりの父」と題され、実の父は白河法皇(1053〜1129年)と脚色され、忠盛は育ての親という設定である。
この脚色は、清盛を往時にも噂され信じられていたという、「白河法皇の御落胤」の一人であるとしている。
白河天皇と中宮賢子との仲は非常に睦まじく、賢子の生前での記録に残っている妻妾は、女御藤原道子、典侍藤原経子であり、その数は多くない。
しかし、賢子の死後は、男色の傾向もあり、身分を問わず非常に多数の女性との関係を持ち、次々と寵愛する臣下に与えていたことや、後の清盛のとり立てられ方から、平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという噂となっていたそうだ。
白河法皇といえば、天皇譲位後も堀河天皇(1079〜1107年)、鳥羽天皇(1103〜1156年)、崇徳天皇(1119〜1164年)の三代にわたり43年間の院政を敷いた「治天の君」で、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞ わが心にかなわぬもの」と嘆いたとの、平家物語の逸話で知られるほどだったのである。
清盛は、そんな白河法皇の遺伝子を持って、武家・平氏の嫡男である平忠盛の子として、貴族の世を武家の世へと導いていくのである。
清盛の手で院政を終焉させたとは、誠に因果な話だ。
さて、ドラマが始まった。平安後期は、あれほどにも貧しかったのか。
300年の平安貴族の世も乱れていたものだ。盗賊の行き交う街中、庶民の暮らしは物乞いばかりに見えてしまう。
山門あたりに群れる盗賊を、平忠盛率いる平氏は血みどろに切りあい捕縛し、鴨川であろう川で血を洗い流している。
雅やかな王朝文化、風俗のかけらも見られない有様である。
院の御所でさえ、豪勢な設えには思えない1118年の京都の時代考証だった。
それほどに、貴族社会にも衰退が忍び寄っていたという黙示であろう。
院の御所に出入りしていた白拍子の舞子は、白河法皇の子を身ごもっていたが、陰陽師の言う不吉な子となるため、殺される子が忍びず逃げ出し、源氏の追っ手に追われ、忠盛に匿われた。
そして直後に、舞子は忠盛の家の納屋で、赤ん坊を産み落とすのである。
やがて、忠盛と舞子は心を通わすことになり、忠盛は射止めた鹿の角をお守りとして舞妓に贈った。しかし、追っ手に見つかることになり、召し取られ、子は殺されることになる。
ところが、法皇と忠盛は激論し、忠盛が舞子とその子を体を張って守ろうとする。その結果はむなしく、法皇、忠盛、祇園女御の前で、子の命と引き換えに、舞子は弓矢を放たれた。
法皇から貰いうけたその子を平家の子として育てる決意のもと、忠盛は平太と名づけた。その平太こそ、後の平清盛である。
舞子と境遇を同じくしていた祇園女御は、平太の成長を見守り、忠盛同様に大層可愛がるのである。因みに、清盛は後に祇園女御の猶子となっている。
ある日、平太は自らの出生の秘密を知り、忠盛に詰め寄った。
事実を告げた養父忠盛は、「死にたくなければ 強くなれ」と言い放ち、剣を地べたに真っ逆さまに突き刺した。
何のために生きるのかの軸を心に持ち、その心の軸を強くするのに体を強くする。そうすれば上手く生きられると、厳島神社沖合いの船の上で、上手く立つ漁師と漁師の子を引き合いに教えていたシーンとオーバーラップし、「死にたくなければ 強くなれ」との言葉が視聴者に強く響いたはずである。
これからのドラマの展開を暗示する言葉でもあった。まさに、逞しい平安時代を見せている。
このドラマに登場した場所は一体どのあたりになるのだろうか。
まず、御所と院の御所である。
白河天皇は譲位後、院政を始め鳥羽に南殿を創建し、43年に及ぶ院政が行われ政治の舞台となった鳥羽には、院御所、御堂、苑池からなる壮大な離宮が造営され、鳥羽離宮と呼ばれた。
一方御所はというと、その子堀河天皇には、円融天皇(959〜991年)が里御所としていた堀川通二条下る東側の堀河殿を里内裏とさせた。
堀河殿は、朱雀大路にあった御所が焼失し、円融天皇が初めて里内裏としたところで、関白 藤原兼通の邸宅を改修し設けられたものであった。
その後、堀河殿は保安年間(1120〜1124年)に焼失し、廃絶された。
その辺りを散策して見ると、二条城東にある京都国際ホテル前に石碑を見つけた。「堀河天皇里内裏跡」の石碑が建てられていた。
堀川二条から東へ120m、南へ250mの敷地で、幼少の堀河天皇を立て政務を行う御所とし、その実は鳥羽離宮にて王権を握っていたのである。
さて、鳥羽離宮から逃げ出した舞子が走っていたススキの原や、河原がどのあたりだったのか、次は、清盛を身ごもった場所となる鳥羽離宮跡へと向うことにした。
地図を見ると、鳥羽殿跡と鳥羽離宮跡の二箇所に史蹟マークが記されている。
堀川通を南下、九条通を京阪国道へ進み名神高速南インターを経て、城南宮を過ぎると、中島鳥羽離宮町である。城南宮道を千本通へと入った。
往時この辺りは、平安京の外港としての機能を持ち、また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な別荘地で、山陽道も通る交通の要衝でもあったという。
その鳥羽離宮跡は、鳥羽離宮公園と市民グランドとなっていた。
発掘調査後に「史跡鳥羽殿跡」の石碑が建てられ、史跡の案内板はあるが、白川法皇の栄華を彷彿とさせるものは何一つなかった。
唯一、鳥羽離宮公園の北西に築山があり、明治45年に大きな石碑が建てられていた。
そこは、平家物語にも記されている「秋の山」で、往時の庭園の一部を復元したものであるようだ。
その麓には地下水を汲み上げ、池から小川へ流す設えがグランド沿いに作られており、鉄筋の浮殿風の休憩場所はその面影のように見え、僅かに当時を偲べるものだった。
案内板によると、淀川につながる池沼の岸辺に作られた鳥羽離宮は、この南殿を中心に、現在の南インター辺りに北殿、天皇陵を含む安楽寿院附近の東殿、竹田田中殿町に田中殿、城南宮の北あたりに馬場殿など、全域180町にもおよぶ広大なものであったという。
また、大門、中門、中門廊などは、鴨川の堤防の下に埋もれているとあった。
公園の西は堤となり、その更に西に鴨川が流れ、西高瀬川、桂川と合流せんと並行に流れている。
追手から逃れる為、河原を逃げ回り、舞子が忠盛に救われたところは、その河原の先であろうと思った。
平家の屋敷といえば、東山山麓から鴨川にかけての地だとばかり思い込んでいたが、清盛が納屋で産み落とされたシーンからしても、この頃の忠盛の屋敷は白河法皇に近い鳥羽離宮周辺と考えるのが自然であろうか。
ただ、白河法皇は天皇時代より法勝寺を建立し、八角九重塔を始め六勝寺や、白河北殿、南殿を置き院御所の機能を持たせていた史実もあり、岡崎の京白河と思えるが、清盛はいずこで宿ったのかはドラマでは定かでない。
今日のところは、平家の屋敷もこの近隣にあったことと考えて歩くことにした。
鴨川の堤を下り、ドラマ平清盛で見たシーンを思い浮かべながら、暫く河川敷にたたずんた。
そして、水辺に鷺と鴎を見た。
「秋の山の春風に白波瀬に折懸 紫鷺白鴎逍遥す」(平家物語巻三)