南禅寺の奥山 神明山の紅葉
名所に近い周辺でマイ穴場を探す
十一月の暦を見ると、各所でのもみじ祭が始まる。
フライングになるやもしれないが、例年早々ともみじ祭を掲げるのは、大原の「三千院もみじ祭」で、10月28日からである。
桜前線は南から、紅葉前線は北からやってくるのだから、大原三千院辺りからもみじ祭となることに不思議はないのだが、見頃はおおむね一斉に十一月中旬頃以降である。
因みに、昨年までの色づき始めをブログ記事などで調べてみると、一部枝先の色づきが10月の末頃までに始まったのが、光悦寺、神護寺、等持院、三千院、清涼寺などである。しかし、その大半は青もみじで一、二本が一分二分、染まりが進んでいるものでも三分といったところであった。
今年の紅葉速報などをみても、色づき情報に未だ「色づき始め」のマークはついていない。
ところが、「三千院もみじ祭」は一ヶ月間の幕を開ける。
当日執り行われる行事案内を見ると、金色不動堂にて不動護摩供法要が行われ、法要中は秘仏金色不動尊が開廟され、献華、献香、献茶、献菓の儀式で供養され、菊花展も同時に開催されている。
まさしく28日はお不動さんの縁日で、この縁日を皮切りにもみじ祭と銘打ち、秋の観光シーズンを迎えようということなのであろう。
もっとも、柿の葉や桜、ケヤキなどはもみじよりも先に色づきは始まっているのだが。
一方、同じ観光地であっても、嵐山もみじ祭は毎年11月第2日曜日からで、清水寺の夜間拝観は11月11日から、境内の地主神社のもみじ祭は23日と様々である。
やはり、紅葉狩は独自に日程やコースを組み立て、楽しむのが懸命なようである。
ならば、京都人としては下見も必要なことになる。
ということから、早朝散歩を兼ね、青もみじの染まり具合を見回ることにした。
そんな中でなかなか良いコースが見つかった。
「名所にも近い周辺を散策する」という、小生の穴場探しのセオリーに当てはまっているのである。
ズバリいうと核は南禅寺である。目指すは日向大神宮だ。
南禅寺でいうと、北上し哲学の道にすすみ、永観堂、法然院、銀閣寺と行けば、ガイドブックの代表的な定番中の定番で、穴場と称しても、くろ谷や真如堂へと白川通を越え神楽岡へという位であろう。
鹿ケ谷の霊鑑寺や安楽寺となれば京都通の人かなとも思うが、いずれにしても哲学の道という雑踏をともにしなければならない。
小生が歩いたのは、同じ疎水縁を散策するのだが、水路閣を潜り、南禅院の右手を鐘楼に向かうのだ。
そこは、水路閣に引かれた疎水の水が流れる水路のある場所である。
流れてくる水路の方へ道なりに歩けば良い。
水路閣前とはまるで別世界である。
賑わいも観光、散策の楽しみのうちだという向きには、水路閣に到るまでにある勅使門横の牧護庵の塀沿いや三門前、あるいは天授庵に入るもよし、法堂、方丈附近を横目に歩くだけで、もう充分であろう。
10月中旬であるが、境内全体は青もみじ一色だった。天授庵の額縁の紅葉は僅かに色づいているが、盛りの絵を思うとまだまだ未完成である。
法堂の南にあたる楓の一枝が鮮やかに色づき染まり、日差しを浴びているのを見つけた。
ワクワクとしだす。一帯が錦繍に染まる頃を目に浮かべながら、赤煉瓦のアーチを思わせる水路閣に向かった。
華やかさはないが、シーズンの喧騒に紛れて眺めるよりは大人の時間を感じる。瓦とその古めかしさに、なぜかしっくりと馴染んだ赤煉瓦、近代への開化の足音が、木立の中から今も聞こえてくる気がする。
鐘楼の方へと亀山陵の石標を通り越し、石段を上ると疎水路である。
左手の狭い地面いっぱいに、踏ん張るようにして鐘楼が建つ。
驚くほどの大きさの鐘楼を見上げた。
取り囲む樹木の枝で鐘楼の全容が掴めなかった。
しかし、木々の間を見下ろすと、亀山天皇作庭の幽玄閑寂の名勝庭園が覗き見できた。
疎水路縁の道幅は狭く少々びくつく。
「注意して歩かないと・・・」、そう心で呟いていた。
はるか先へと、周囲を木立に包まれた一直線の疎水路は仄暗い。
右下は切り立った谷になっていて、その下には南禅寺塔頭の庭園や墓地が見え隠れする。
頭を上げると樹木の切れ間から遠く市内が見通せ、暫し立ち止まりたくなった。
この疎水路縁を歩くも、出会った人は数人である。シーズンといえども変わらないだろう。
更に水路を進んで行くと発電所にたどり着く。
そして、疎水とインクライン(傾斜鉄道)の名残を残す公園となる。
公園の一角に顕彰碑などが建ち並んでいる。工事中になくなった方々の慰霊碑もあった。
お蔭を持って現在の日々の暮らしがあるかと思うと、思わず最敬礼をしたくなる。
北垣知事に見出されて工事を任されたのが、土木技術者(後に工学博士) 田辺朔郎(さくろう/1861〜1944年)である。
明治16年(1883年)、京都府御用掛(ごようがかり)に採用されたとき、田辺は弱冠21歳。
構想の原型は、工部大学校の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」にあった。
そのインクラインも水路閣も田辺の残した遺産で、運河は京都へ水にとどまらず電気をも齎し、近代への開化を推し進めた源なのである。
今尚、京都市民の生活を支えている。
紅葉にはいま少し早いが、散策には十二分に満足できるコースである。
このあと線路に沿って、南禅寺橋まで降りるのは拙い。
ここから先がお奨めの本番である。
インクラインの大きな滑車や船受枠と台車が保存されている。これを左に見て進むと、疎水に架かる大神宮橋である。橋からは日本初の水力発電所となる煉瓦造の「岡崎疏水発電所」の建屋が見える。その橋を渡り細い坂道をあがるのだ。
それが日向大神宮への参道である。
通称「京のお伊勢さん」と呼ばれるアマテラスを祭神とする日向大神宮は、京都最古の宮である。
上り出すとすぐに二の鳥居である。急な坂を上りきると手水舎が見え、その背後に神田神社、左手に急な石段と鳥居がある。
石段を上がると神明造の本殿と古代の面持ちを残す境内が広がっていた。
その境内は谷あいにあたり、周囲の山は神体山で、古より日御山(ひのみやま)、神明山(東山三十六峯の一山)と称し、神域には桧、杉の老樹が生い茂る神さびた別天地である。
三条通に面した一の鳥居が神社の入口であるが、そこは京の七口の一つである粟田口に当たり、弓屋、井筒屋、藤屋という京では有名な茶屋があって、旅人たちの送り迎えが行われ大層な賑わいだったと伝える。
誰一人いない神域で、大きく息を吸い込み背伸びをした。
太鼓橋から更に一段高い内宮への石段にかけて、青もみじが見事な枝ぶりでトンネルをこさえているのに気がついた。
真紅に染まる紅葉に神域一帯が染まる頃、再び訪れることを決めた。
紅葉狩りの異空間に違いない。
時間が許すなら、天岩戸からトレイルコースに沿って、南禅寺裏山を経て、大文字山までを歩くのも乙なものであろう。