新島八重 鉄砲から知識へ
文武両道で近代日本、京都先進気風を醸す
大変なところを触り出した。
全くのところ新島についても同志社についても知らない。お叱りを受けるやも知れぬが、八重となれば尚更のことである。
従って、NHK大河ドラマ「八重の桜」の一報を知ったとき、京都府の花木のしだれ桜じゃなく再来年は八重桜に注目の目が向かうのかと・・・、笑われてしまうだろうがそう思ったほどである。
京都に暮らし、かつ同大学出身の知人も多いのに、それほどに同志社大学のことも、新島襄のことも知らなかったのである。
良い機会だと思い、同志社大学の特設サイト「新島八重と同志社」を頼りに、年表の行間を埋めるべく右往左往しながら、大方の人もそうだろうと決め込んで、メモがわりにこのテキストを記している。
ほぼ資料などを丸写しせざるを得ない中、一通り概要が呑み込めたところで、まず娘夫婦との夜話のネタにしてやろうと思っている。夫婦ともども同志社で院まで通っていたのだから、鼻をあかし父の面目を保とうと企んでいる次第である。
さて、明治9年1月3日に、挙式をすませた新島襄と八重は、前年11月の同志社英学校開校に続く次なる開校に取り掛かっていたようである。
結婚して9ヶ月後には、京都御苑内にある公家屋敷だったJ.D.デイヴィス邸(旧柳原邸)の提供を受け学舎とし、20代半ばのアメリカ人女性宣教師のA.J.スタークウェザーを迎え、まず女子塾(後の同志社分校女紅場/現在の同志社女子大学)を開園させたのである。
「京都ホーム」と呼ばれた寄宿学園の最初の生徒は、寄宿生4人を含む計12人でのスタートだったいう。
そして、翌明治10年4月には、女子塾は同志社分校女紅場となり、八重自らも礼法の教鞭をとることとなった。
八重と共に会津から京都へ移っていた母・佐久も同校の舎監として働き、一族郎党結束して取り組んだのであろう。
生徒数8人、寺町通丸太町上ル松蔭町18番地高松保実邸の半分を校舎とした同社英学校の開校の時より、「自治自立の人民」の育成を目指した襄の建学精神は、同志社分校女紅場にも脈々と生かされ、五ヵ月後には「同志社女学校」へと改名を為したのである。
これは、一私塾から読み書きや裁縫・手芸技能を授ける公の教育機関となり、そして、技能教育から才芸知識教育へと、僅か一年で昇華させた出来事なのだ。
それらの核心は、「キリスト教精神のもと、教養豊かな自立した女性を育てる」という、今日の同志社女子大学の理念に引き継がれている。
翌11年、同志社女学校は新校舎が今出川通に新築となり、同年9月には、めでたく新島夫妻の新居(現在の新島旧邸)が完成し、新烏丸頭町の借家から転居することになった。
しかし、「社会の発展には女子教育を盛んにすることが不可欠」との考えを、男尊女卑の時代に唱えた襄や、それを女性宣教師とともに具体化し支えた八重にとって、必ずしも順風満帆であった筈はない。
この頃といえば、明治9年3月 廃刀令が出され士民の帯刀禁止、4月男子満20年をもって成人とする太政官布告、明治10年1月西南戦争勃発と、まだまだ維新の草創期であり、文明開化とはいえ日本の近代化の模索の時代である。
新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を世に示しても、それは異様な夫妻に映り、八重は「天下の悪妻」と評されていたという。
例えば、ご主人様旦那様を「ジョー」と呼び捨てで呼ぶ。
また、車の乗り降りも、部屋への出入りも、席への着座も八重が先である。留学を経て西洋文化での生活をしている襄には普通であっても、散切り頭になったとはいえ、レディファーストという文化のない京都では奇妙で馴染まず、世間には罵られたという。
ところが、西洋文化の知識を得た八重は、そんな視線や陰口を気にも留めず、次元の低さに厭きれていたのかもしれない。きっと、力や銃よりも知識の方が勝る武器だと考え、超越していたに違いない。
今の時代では当たり前のことに聞こえるかもしれないが、いや、まだまだ根底には「女だてらに」との思いを抱く世代も多いはずだ。小生でさえ、その言葉は死語になっていないのだから。
明治初期に、日本の近代化の枠組みを試行する政治とは一線を画し、日本の近代化のリーダーとなる人物の育成をめざした襄夫妻には、さぞかし次元の異なる別世界に映ったであろう。
同志社英学校で学んでいた徳富蘇峰に至っても、学生演説会の演壇より、「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)のような女性がいる」と強く非難されたが、そ知らぬ顔で八重は全く動じなかったと伝わっている。
どう考えても、教育には相当なる時間が必要なことを百も承知で覚悟していたとしか思えないのだ。
だからこそ、不屈の精神で立ち向かえたともいえる。
会津藩の砲術指南の山本家に生まれた八重。
その会津の人材育成の指針に「什の誓ひ」というものがあるそうだ。
それには子弟教育7カ条が記されている。
私欲で道理を曲げてはならないと諭す、「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い教えである。
一、年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
一、虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ
一、弱いものをいぢめてはなりませぬ。
一、戸外でモノを食べてはなりませぬ。
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです。
この強い教えを核に、八重は会津の女として育ち、京の女として生まれ変わり、襄のパートナーとして大成していったのである。
そして、その二人の蔭に日向に、いつも師と仰いだ兄山本覚馬の存在があったことを忘れてはならない。