京都の秋
京都人気質と行楽の心得方
行楽観光本は彼岸頃より「京都」を囃し立てている。
秋の足音がすると、書店にはいわゆる「京都本」「京都特集」の雑誌が並び、TVでは特番を組む。不思議なことだ。秋の京都に惹かれる由縁は何なのか。
どこがその気にさせるのだろうか。秋の京都にしかないものとは。
確かに紅葉は綺麗だ。しかし、京都にしかないものでもない。
出版社が煽るからなのか。編集者は秋の京都以外に編集ネタがないのか。
それとも秋の京都を冠すれば誰もが手を出すから、ビジネスが楽だからなのか。
丹波栗も丹波松茸も京都産ではあるが、流通のお陰で他の地で食せない訳でもない。
他の地にも秋の味覚は豊富にある。
確かに、このシーズンは「特別公開」と称して、見られないものを見せてくれるのは京都である。
京都には普段から見せてないものが沢山ある。
隠し持っている物量は都の歴史の長さに比例するのは当然ではある。
尽きないほどのネタがあるのも事実だ。
毎月小出しする手もあるが、それをしないのも京都だ。
ゆっくり熟成させながら生きて行く気質は土地に根付いたものだ。急がないのだ。
東京はパッとくらいつき、飽きたらポイッと捨てる。人の味を作り出すところではないのだ。
これを「温い」と、せっかちに卑下しているから滑稽だ。
京都は、そんなぬるま湯的な土壌を否定しない。 これがいいのだ。
ゆったりとした時の流れを持っているから良いのだ。
そうかと言って、退屈するほど怠惰な街ではない。山間部の田舎生活を提供はしていない。
物見遊山にはいくら時間を費やしても、いや人生を費やしても到底足りない程に溢れている。
また、その組み合わせにより、心の情景は遷ろう。千変万化とはよくできた言葉だ。
さまざまな形で、さまざまな目で癒してくれる処である。
五感に訴え全てを飲み込んでくれ、包み込んでくれると思うのだ。
だから小生は京都を離れない。
満足も称賛も容易に得にくいが、得られれば心底から得られるところだろう。
そんな京都の秋を、どのように切り取ってお伝えするのが適切なのかを考えている。
あんちょこな情報羅列が、元来苦手な小生を、悩ませるところである。
京都の秋はあなた自身のテーマを持って、訪れる場所、訪れ方を是非楽しんでもらいたい。
「物見遊山」の遊山は、禅宗の言葉で仏教語である。
「遊」は自由に歩きまわること、「山」は寺のことで、修行を終えた後、他の寺へ修業遍歴の旅をすることをいった。
転じて、遊山は山野の美しい景色を楽しみ、曇りのない心境になることを意味する。
京都観光協会
http://www.kyokanko.or.jp/
京都古文化保存協会
http://www.kobunka.com/
京都・滋賀の紅葉情報 (京都新聞社)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/momiji/