祇園祭 お迎え提灯
それぞれの時代、民衆がこの祭りをあつくしてきた
神輿洗いのある7月10日、八坂神社の神輿蔵に中御座、東御座、西御座の三基の神輿が姿を表す。鳥居や擬宝朱(ぎぼし)はつけられているが、大鳥など飾り具はついてない状態である。
神輿蔵は南門を入って左手、手水舎の前を経て直ぐの南奥にある。
大鳥、飾紐、紐房、鈴、瓔珞(ようらく)など飾り具は、舞殿に運ばれ置かれている。三基の神輿を蔵出しして、中御座が鴨川での神輿洗いから戻るまでに、それらは付けられ東御座、西御座の飾りつけは終えている。
神輿は天上の神の乗り物であるが、神輿蔵から出された神輿には神様は未だ乗られておらず、本殿に居られる。本殿から御霊を遷されるのは15日の宵宮祭で行われるのである。
素盞嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の神々が、それぞれ中御座、東御座、西御座に遷られる宵は、奉燈・電灯が一斉に消され、静寂の暗闇の中で鈍い琴の音で雅楽が奏でられ行われる神事となる。
だから、もし八坂の神様にお祈りを捧げるなら、15日の神事までは本殿に向かい、それ以降24日の御霊遷しまでは、神輿に参詣するのが道理で、ご利益が叶いやすいことになる。
さて、神輿に乗って氏子域においでになる神様をお迎えするにあたり、大歓迎の意を表わす最初の行事が「お迎え提灯」である。
お迎え提灯の行列は「祇園萬燈会」が主催し、神輿渡御の関連行事として行われている。
祇園祭では、この他にも八坂神社に縁のある団体により伝統芸能が奉納される「宵宮神賑奉納」をはじめとして、「石見神楽奉納」「琵琶奉納」「狂言奉納」「式包丁奉納」「献茶奉納」などなど盛り沢山の奉納行事がある。
そうして見てみると、祇園御霊会として悪霊退散を願うことに始まった祇園祭で、庶民がいかに神様を歓待しようとしていたかの名残を知ることになる。
古来より神賑(かみにぎわい)行事は、神職の執行する厳粛な祭典が終わった後、神楽や獅子舞、舞楽、奉納武道、奉納相撲、競射、神輿、山車、仮装行列など様々な催しを育んできている。
祭礼行事のなかで人々が神と一体となって、神賑を通じ、人力では為しえない神通力を肌で感じる機会だったのかもしれない。
そして、神社と氏子、崇敬者とが共同体としてあった基盤の上に成り立っていたものであろう。
祇園祭の神輿洗いの関連行事として行われている「お迎え提灯」は、未だ神霊が遷移していない神輿の先駆けとして提灯行列でもって歓待している。
また、その神輿の道調べとして、大松明をもって神社と鴨川間を清め祓っている。
神の乗り物を敬う心と言う理解もあるかもしれないが、俄かに理解し難い。
私見であるが、鴨の水の神を素盞嗚尊の遷移の前に神輿に乗せて、祇園さんにお招きする。その道を清め祓い、神輿洗いに乗じ、鴨の水の神のお迎えを氏子が行ったとすると、合点ができる。
往時の悪霊疫病は暴れ川の鴨の水が齎したことからすると、そのように考える庶民の信仰が生まれることに何等の不思議はない。
神社も話さなければ、資料も明らかにされてない。
催しの形だけが残り、その意図や素朴な疑問に応えることに、戦後の社会は臆病になっている所為だと思うが、閉ざされたブラックボックスにしていては逆に衰退していくのではないだろうか。
時刻は午後4時半だ。
触れ太鼓が叩かれ、石段下から四条通を西に進んだ。
祇園萬燈会と記された赤い提灯二基、直後に紫色に白で抜かれた神紋入りの幟旗が、その背後には、竿先に御幣をつけ、「おむかえ」と大書された大きな提灯が朱の西門を背に、晴天の空を担ぎ挙げるかのようにして迫ってきた。
去年の写真には、「おむかえ」と記された二灯が幟旗の後ろであったが、どちらが正規なのか、もうどちらでもよいと思った。
手にしている手提げ提灯を見て、先頭をゆく今年の祇園囃子の奉仕は「放下鉾」であることが分った。櫓の屋台車に太鼓と鉦を取り付け、練り歩いてのお囃しの道中は、普段の巡行とは要領が違いさぞ大変だろう。
夏の風情を伝える御霊会のお囃子が響き渡り、ひと時の涼を与えてくれた。
祇園囃子に先導されて続くのは、幼子ばかりの提灯行列となる。
純真無垢な少年少女のお迎えとなれば、如何なる悪霊もたじたじで、御霊となって、祇園の神様の下に退散するに違いないと思った。
まずは、小武者組の提灯を掲げ、武者組の御神灯が続く。腕白顔の元気な顔も颯爽と凛々しいが、夜半8時頃に石段下に着く頃にはどんな表情になっているだろう。
大人でも強行軍だと思うが、鎧兜の幼子には精進修行かも知れない。
鬼武者の次なるは少女。京舞篠塚流の奉仕で「小町踊」の行列である。江戸時代初期、七夕の日に少女が舞った元禄時代の風流な舞が「小町踊」で、華やかな着物の色に沿道が湧く。
振り向いて御神燈を後ろから眺めると、商店などのサポートがその風流の提灯に記された屋号でよくわかる。皆で支えあい盛り上げられているのが、祇園祭であると。これこそ神を氏子域へお迎えする歓迎の「お迎え提灯」なのである。
車の通行で行列が中断された。車社会が大手を振り、祭礼が遠慮気味になっている。どこか可笑しい。効率経済と文明社会は、立ち止まることを忘れ、文化と信仰を破壊していることに気づいていないのだ。それこそが現代の悪霊なのかも知れない。
それに輪をかけるかのように、国家権力は笛を吹き、正義を振りかざしている。
祭礼は、そんな滑稽な光景を大衆に見せているが、どれだけの人が疑問を感じているだろうか。
再開された。石段下に白鷺が羽を広げだした。
「鷺踊」の幟が立つ。古くから祗園御霊会で奉納されてきた厄除けの鷺舞は、泥臭い財政的なトラブルが基で、鷺舞保存会と祇園祭とは縁遠くなったと聞く。
純白の鷺のように行かないようだ。とって変わり、子供達の小鷺踊りで鷺舞が継承されるようになったという。
その「鷺踊」の年長者と一緒に踊るのが、「しゃぐま」の年少組である。
手に小太鼓や笛を持ち、頭に真っ赤の熊かつらを被り、腰には榊と「蘇民将来之子孫也」の護符を差していた。
続いて、頭にリボンをつけた涼しげな浴衣姿の少女の一行が続く。
「祇園祭音頭」の万灯である。白地の浴衣の柄は赤と青で八坂神社の神紋が染め抜かれていた。
お迎え提灯の殿(しんがり)を勤めるのは馬長稚児(うまおさちご)の行列である。
石段下の空気が引き締まる。それは響き渡る馬の蹄の音の所為である。
綾藺笠(あやいがさ)風のものを被り、華やかな水干姿で騎乗の稚児、額に黒の位星が二つ描かれていた。その井手達は行列に品格を齎している。
向かって左手に付き添う浴衣姿の女性は稚児の母である。少し心配顔にも見えなくはない。
馬長稚児は、鉾町と養子縁組を為す生き稚児とは明らかに違う。
「馬長」とは、祇園御霊会の神事に、騎乗して社頭の馬場を練り歩いた者で、小舎人童(こどねりわらわ)などを美しく着飾らせていた名残であると聞く。
お迎え提灯は、子供が主役で、馬長稚児以外の鬼(児)武者に小町踊の少女、鷺踊、しゃぐまなど、どれもが芸能型、行列型の稚児行列であった
まさに神賑の行列なのである。
行列は出発したばかりだ。これから約3時間半すると、夕焼け空を背に再びこの石段下に戻る。
神輿洗いの中御座神輿を迎える頃は夜の帳が下り、神輿が舞殿に飾られたのは午後10時を過ぎていた。
そして子供たちが踊りを奉納披露する。
10日の一日は長い一日である。そうして、神をお迎えするのである。