知られざる祇園祭 神宝奉持列
宮本組、神恩感謝で「お宝運び」
祇園祭には「お宝運び」がある。
それは、山鉾のことでも、神輿のことでもない。
神幸祭と還幸祭の時に、六角屋根のスサノオを乗せた中御座神輿の前を行く「神宝奉持列」のことである。
祇園祭の要となる神輿渡御には欠かせない行列で、剣鉾と同じく、祇園祭や京都の神輿渡御に見られる古式の祭礼の様式となっている。
それは、平安時代以前の神様の行列が、御神体と神様が身に着ける御装束や御神宝と供に巡幸していた様式を受け継いでいるからである。
その古式の祭礼様式を今に継承している、葵祭の前儀御蔭祭や祇園祭の神宝列の重要性と希少性に気づいてもらいたい。
その「お宝」を運ぶのは、古来より宮本組の手より離れることなく、「お宝」に触れるのも「宮本組講社」にしか許されていないという。
宮本組とは、明治初頭に結成された募金組織、清々講社第一号に指定された氏子組織で、八坂さんのお膝元である弥榮学区の住民、店主、地主や有志で構成され、旧学区ごとの25団体の中の弥栄学区の組織である。
そもそも、平安時代より神社周辺に住んだ人たちの地域で、熱心に神社に奉仕していた深い由縁と高い誇りを持つ人らであることは言うまでもない。
「皆さんは、お宮のもとで、いつも神さまのそばにおられる。氏子の中の氏子です」とは、弥栄神社森宮司の京都新聞社インタービュー記事での弁である。
宮本組が奉持する「お宝」の最たるものが、神輿渡御の際、神宝奉持列の先頭を行く勅板(ちょくばん)である。
その勅板には、天延二年(974年)、円融天皇(位:969〜989年)の高辻東洞院の地に大政所御旅所を賜り、この地に毎年神幸することとの勅令が記されているという。
これが御旅所への神輿渡御祭の典型となる神幸祭の最初と思われる。
そして、貞観11年(869年)より、ト部日良麿(うらべのひらまろ)が66本の矛を神泉苑に立て、牛頭天王(ごずてんのう)に地震などの災厄や疫病の退散を祈る神輿を送る祭礼を行った祇園御霊会は、安和3年(970年)より毎年の恒例となり、天延二年の天然痘の大流行を鎮めるべく出された円融天皇の勅令に基づく神幸祭の神輿渡御と一体化し、共に毎年の恒例として前祭と後祭となり、現在の祇園祭となったのである。
つまり、神輿が鴨川を渡り大政所御旅所など平安京に神幸し、京の悪霊を拾い集め、又旅社(御供社)にて神饌し、祇園社へ還幸するという御霊会が神事となったのである。
7月17日、神幸祭の勅令が記された勅板が神宝奉持列の先頭となり、その神宝奉持列に神輿が続く、これが所以である。
いったいこの栄誉ある勅板、お宝中のお宝は誰が奉持するのかが気になった。
ところが、7種類17個ある神宝の奉持者は決まっていないという。
毎年、誰が何を持つかは7月1日の「吉符(きっぷ)入り」の夜に、籤引きで決められていたのである。
宮本組講員にとって、この籤引きはさぞ緊張するであろう。
7種のお宝は、勅板、矛、楯、弓、矢、剣、琴と、武具や楽器で、その大きさも重さも様々な上に、各々の奉持の仕方に違いもある筈である。
奉持経験のないお宝に当たれば、練習期間は当日まで二週間ほどである。
観衆として見ていても、学生バイトさんか、講員かは一目瞭然である。
格式高い伝統に相応しい威風堂々とした立ち振る舞いで期待に応えているのは講員、大道をへなへな練り歩いているのは学生バイトさんである。
「シャンと歩け!」と、言いたくなるお祭りも多々ある。
奉持者は「万一落としでもしたら・・・」と、さぞ緊張が漲(みなぎ)るであろう。
4日、右京区にある円融天皇陵に、祭礼の無事を祈願し詣でると聞く。
17日、神幸道を東大路に出たところで、列が整えられていた。
総勢100名ぐらいだろうか。聞くところによると、講員の数が80名を超し、道中で奉持の交替をしながら、講員のみで「お宝」が運べるようになったという。
ということは、朱傘を差し掛けている白袴・白水干・黒烏帽子の白丁装束が学生バイトさんで、狩衣装束は宮本組講員で構成できたわけである。
これから四条お旅所までの三キロの行程を、二時間半かけての道中となる。
ふれ太鼓、騎馬武者、唐櫃、豊園泉正寺榊列に続いて、宮本組の提灯が見えると金棒で、その後が勅板である。
背筋が伸び、真正面の視線はたじろぎもせず、背に差した扇と、烏帽子につけられた蘇民将来の護符が印象的である。
勅板を抱える手には白手袋をはめ、紫の袱紗をかけた上から持たれ、左六十度に支え保たれていた。
この勅板があってこそ、勅命によって行われる祭礼である証となる訳で、いかにも誇らしげである。
その背後には三管三鼓で雅楽が奏じられ、矛、楯が連なる。
矛には木瓜の神紋が、盾には十六菊の紋が付けられている。
神さびた響きに、緊張感が走る。
そして、弓、矢、剣である。
やはり、その数はそれぞれ三本で、奉持者は勅板を持つ要領と同じで、紫の袱紗をかけ白手袋で抱えている。
滑り落ちるのではないかと心配だが、お宝を直に触れることは許されない。
奉持者はお宝ごとに一名か二名の交代要員が同伴している。朱傘が差し掛けられているのは奉持者だけだと思っていたが、これは人に差し掛けられているわけではなく、お宝の一つづつに差し掛けられているとのことだった。
人より、神宝の方が上位として敬い、大切に扱ってきた証である。
最後のお宝は琴、人の背丈ほどもある。
お宝の中でも一番重いからか、交代要員も三名が配されている。
四条御旅所に着くと、お宝は還幸祭まで飾られ、再び「お宝運び」となる。
しかし、お帰りの道中は、おいでの道中の倍ほどになる。
前方を見据え、姿勢を正し練り歩く道中で、一度だけお辞儀する時がある。勅板に由縁のある大政所御旅所跡での礼拝だけである。
御供社を経て、三条通を寺町に南下する頃には疲労困憊も否定できないが、それでも弱音を吐く気など起きないという。
講員となった段階で、神恩感謝の一念で「お宝運び」のできる喜びを感じ、それを誇りとして、八坂神社へと向かうのであろう。
四条御旅所で神職より手渡された勅板は、そうして、神職の手を経て八坂神社本殿へと戻されているのでる。
平安時代、祇園社に奉仕した神人(じにん)にルーツがあるとされる宮本組の誇りは、今も「お宝運び」に連綿と受け継がれているのだ。