迎え火 夜まいり
お精霊さんとお盆の休み、夜も忙し
大文字こと五山の送り火は、あまりにも有名である。
お精霊さんが迷わぬよう冥土にお帰りになれるよう点す送り火である。
では「迎え火」はどうするのであろうか。
軒先か精霊棚に盆堤灯を吊し、灯りをつけて、お帰りいただく場所を示す。
そして、盆の入りとされる13日の夕方、家の門口や玄関でオガラを焚くのである。
そのオガラの火を蝋燭に移し、仏壇などの灯明にする。
仏教宗派により様々な迎え方があるが、特段の宗教信仰がないなら、その方法に拘ることはない。ご先祖様への感謝と追善供養の気持ちがあれば、寺院や墓地に出かけるもよし、故人の縁の場所でもよし、近隣の池や川であっても良いのではないだろうか。
茄子と胡瓜でこしらえた牛馬をドアの外から中に向けて置いてあるのを見かけたことがあるし、浄土真宗では盆提灯を灯し先祖と仏様に報恩感謝を捧げるだけで、迎えの慣習はないと聞く。なぜなら故人は全て極楽往生するからとの教えであるからだそうだ。
そうならば、寺院などに夕涼みを兼ねて、「夜まいり・宵まいり」に出かけ、京の風物詩に触れ、仏様に合掌するというのも悪くはない。
8月7日には六道まいりが始まる。
六道珍皇寺(臨済宗)の迎え鐘は観音菩薩の加護により各々の家に戻してくれる鐘である。松原通にある六道の辻界隈には、そのほか六波羅蜜寺(真言宗)や西福寺(弘法大師)があり、いずれにも迎え鐘が用意されている。
その六波羅蜜寺で、毎年8日からの三日間、夜8時より迎え火の萬燈会が行われている。
六波羅蜜寺の萬燈会厳修は、開山である空也上人が応和3年(963)、村上天皇の勅許を得、名僧を集め行われたのがはじまりで、“大”の人形文字に置かれた銀盃の灯芯に点火し、先祖の精霊を迎え七難即滅・七福即生の祈祷をする伝統行事である。
お精霊さん迎えの原形ともいわれ、五山の送り火に対応する迎え火萬燈会ともいえる。
万灯会といえば壬生寺(律宗)にも出かけるとよい。9日から16日までが万灯供養会である。
静まりかえった町家の軒先が並ぶ坊城通を行くと、表門が見える。
表門の間から、黄金色に浮かび上がる本堂が闇を明るくして座っている。
これなら、お精霊さんも迷わずに帰ってこられる目印になることは間違いないと思った。
表門には、「壬生延命地蔵尊」の電飾と、「盆供施餓鬼」の門札が掛けられていた。
午後9時半を過ぎている。境内には数人の参詣者が念仏踊りの舞台に腰掛けていた。
石畳を進み、足早に明るく点っている本堂の千基を越える灯籠に近づいた。
献灯者の名前がぎっしりと並び記されている。
曇天だった空が青白く明るい。雲が走り月も見えた。
本堂向かって左手の千体仏塔が夜空の下に明かりを放っている。
パゴダのような円錐のその造形に、京の下町にいるにもかかわらず、小生の迎え盆の世界観を変えざるを得なくなった。
世界中の精霊が壬生寺に立ち寄られる気がするのである。
来年は、迎え鐘の梵鐘が撞かれる時間に来てみたい。そして、ご詠歌と梵鐘と万灯会の織り成す空間に、是非身を置いてみたいと思った。
8月14日からのお盆の間には各寺院でも万灯会が行われている。
東大谷万灯会は浄土真宗の宗祖親鸞聖人の墓所であるが、全国の門徒から墓地に献灯された灯明と市内の夜景が京の平穏を教えてくれる想いになる。
そして大原三千院では、三千院万灯会が行われると聞く。
参拝は無料で、「千年の祈り」点灯式が観音堂にて行われ、境内全域にローソク一万本が灯されるという。
光に浮かぶ往生極楽院が想像されるが、先祖の精霊の回向の灯りは、この世の浄土を見ることになるかもしれない。14日15日のいずれかに訪ねてみたい。
もし都合がつかなければ、11日から5日間催される延暦寺総本堂「根本中堂」の夜間特別拝観「法灯花(ほうとうか)」が良さそうである。
根本中堂を中心に、樹林をLEDによってライトアップを行ない、叡山全体を幻想的な雰囲気に包み込むとのこと。
三千院のローソクとは対極になる灯りで対照的だが、根本中堂が燃え上がるような赤に染まると聞いている。一度は見ておきたい。
というのも、清水寺の千日詣りへ出かけたときの感動が忘れられないからである。
清水寺のライトアップやレーザービーム、市内の夜景を見たかったわけではない。
ご開帳の三重塔の大日如来像と本堂の千手観音像・脇侍(わきじ)に参詣したかったのである。
厳かに灯明をあげさせてもらった。
ローソクの灯りに揺らめく目前の観音様の笑みに、大きな加護を感じ取った。
観光客でもないのに清水寺には行くまいと思っていたのだが、とんだ間違いであった。
筆舌に表しがたい感動は、小生にとって観音様との結縁の日となった。
根本中堂の特別法要においても、何かを感じ取れそうな予感がする。
やはり、お盆は特別な日なのである。
お精霊さんがそこまで来てくださり、小生に何ものかを教えんとされているのであろう。