知られざる祇園祭 点描 神輿洗と四若
変わらぬ伝統と変わらざるを得ない事情
鉾に例えれば、長刀鉾の曳初めに菊水鉾と刻まれた車輪をつけて、綱の曳き手が菊水鉾の半纏を着けていたら、誰もが妙に思うはずである。
ところが、中御座神輿に東御座神輿の轅(ながえ/長柄)と横棒が取り付けられていた。
神輿が六角屋根だから中御座と思って見ていると、黒棒に結わえられた横棒には東御座と記されているのである。
この神輿が四角屋根で東御座となり、八角屋根なら西御座と判別していたから、輿丁が間違って着けたのかと、最初は思った。
初めて気づいたのは、祇園祭7月10日神輿洗の日で、八坂神社南門前、二軒茶屋中村楼の玄関先の参道である。
これは17日の神幸祭や、24日の還幸祭の神輿渡御では見られない光景である。
中御座の祭神素盞嗚尊(スサノオノミコト)と東御座の祭神櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)は夫婦であるから良いというものでもないだろう。
この不思議に気づくものは少ない。
輿丁の法被の背を見ると、三角のうろこ紋ではなく、間違いなく四若の紋だった。
中御座神輿は三若神輿会、東御座神輿は四若神輿会、西御座神輿は錦神輿会が担っているというから、轅の東御座と法被の四若の紋は一致している。
神輿を間違って出したのかというと、そうではない。
神輿洗は三座を代表して、中御座を祇園社(八坂神社)から鴨川まで担ぎ、鴨川の水で修祓して、疫病を齎す鴨の水神を祇園社に迎えるという神事として、古くより執り行われてきたものである。
つまり、三座の代表を東御座神輿にすれば、輿と轅と紋が一致するから疑問とならないだが、すぐさま神社が良しとは言わないのだろう。
古例を習っても、否、元来、神と人と本末転倒だと言うはずだ。
神は担ぎ手を選別していないから、滞りなく執り行ってくれと往(い)なされるだろう。
不可解なまま、南楼門から拝殿に向かった。
拝殿には、神輿庫から出されたばかりの東御座、西御座が置かれていた。
神輿の周りでは、同じく出された飾り具が取り付け始められていた。
記憶違いでなければ、中御座が神輿洗の神事より戻ってきてから飾り始められていたのだが、古例が変更されたのだろうか。
更に驚いたのは、西御座の飾りつけを錦神輿会の人が行っているのだが、身に纏っていたのは四若の法被であったのだ。
これで判った。この日の神輿に関する仕切りは、全て四若神輿会の基に行うと決められているであろうことが。
素人感覚で、それぞれの神輿はそれぞれの神輿会でやるものだと、それまで思っていた。
暫くすると、神輿洗奉告祭を終えた黒紋付の役員が本殿内より降殿し、四若の旗が棚引く本殿前に、宮本組の大提灯が立てられ動いた。
宮本組といえば、古くより祇園社の宮座として、神社並びに祇園祭の祭礼執行に携わってきたところである。大提灯に続いて朱の弥栄学区と記された小提灯が続く。
そして、本殿横では宮本組講員が神職よりお祓いを受け、手提げ提灯を手に手に列を成し、南門に進んで行った。
本殿に向けて置かれていた「道調べの儀」の大松明にオケラ火が遷されると、火柱が立つのを待ち、四若の輿丁三人の肩に担がれ、先導の裃を着けた宮本組の後を追ったのである。
つまり、神輿洗神用水に始まり神輿洗の斎行は宮本組が担い、道調べの大松明や神輿の荷役を四若が担っていたのである。
さきの神輿洗もあとの神輿洗も同様だった。
神輿洗のお供に三若神輿会の関係者らは、いずれも出向いてきていた.。
しかし、それは、黒紋付でも、袴でも、白法被でも、他の祭装束でもなかった。
俗に言う関係者としてのお供なのである。
そこには不文律の仕来りが厳然と見え隠れしているのである。
祇園祭神輿渡御と三若のことを、三条台若中会所を訪問した時から、いろいろと何度となく尋ねてきた。
というのは、神輿渡御を江戸期元禄(1688年〜1703年)の頃から、三条台若中(三若組)を結成し、神輿渡御に関することを一手に引き受け奉仕されていたからである。
明治維新前後の三条台村の衰退とともに、三若組だけでは祇園社の三座を渡御させることが困難となり、江戸末期には、東御座を木屋町四条辺りの高瀬川船頭衆に任せ、三若に対し四若と名乗ることになったこと。
維新後は、これを手伝っていた東山三条の人たちが中心となり、昭和五年頃から「四若組」と称し、現在の四若神輿会に至っていること。
西御座についても、大正期までは三若で何とか奉仕が適ったが、大正13年、壬生村の人たちに肩代わりを願うことになり、「壬生組」と称したこと。
その壬生組も時代の波に様相は変わり、昭和22年より錦市場の人たちの奉仕に移り、現在の「錦神輿会」が担うようになったこと。
人口の変動、労働の変化などなど、時代の波に対応しながら伝統と歴史を絶やさない奉仕に努めて来られた話をお聞かせ頂いていた。
しかし、神輿洗のバトンタッチについては仔細にお話が聞けなかった。
ご先祖が守ってきたものを自分たちでは守れなくなったという話に終始し、「不甲斐ない」というのである。
印象でいうと、口を噤み触れたがらない様子を感じた。
若い輿丁らも、聞かされてないようで、知る者はいない。
言葉を掛けると、「三若が神輿洗をしていたら、祭りには4回も担げるのになぁ」と、四若の輿丁を羨ましく思っている。
おそらく、何らかのことがあって四若に交替したのだろうが、どっちでも良くなった。
何故なら、ものの見事に四若が神輿洗を実行し祇園祭がスムースに動いていること、一般的に中御座に東御座の轅がついていても、誰も疑問を抱かないことなのだから、取り立てて言うに及ばなかったことなのかもしれない。
中御座神輿には中御座と書いた轅をつけて、それを四若が担げば良いようにも思ったが、中御座の轅には三若と入っていて、東御座の轅には四若と入っている。
更に、神輿は神社、轅や横棒は神輿会の所有となっていて、担ぐ奉仕をするものが自らの轅でないと担がないという誇りを持っているようなのである。確かに厄介な話である。
否、それほどまでに、祇園祭に奉仕する誇りと熱い思い入れが、輿丁にはある証なのである。
それらの拘りは、各場面において、それぞれに祇園祭に関わる京都人に共通するものだとしか思えない。