婚礼の儀
古来、日本では結婚式を行わなかった
ジューンブライド、わが国にもすっかりと定着した言葉である。
六月の花嫁と訳せばよいのだろうか。この月に結婚した花嫁は幸せになれるというヨーロッパの伝承である。
梅雨時の日本には似つかわしくないように思うが、ヨーロッパの六月は一年中で最も雨が少なく好天に恵まれる月で、さらに三月からの三ヶ月間は結婚が禁止されていた時代があったこともあり、六月に解禁されると若者が一斉に結婚し祝福されたという。
更に、ローマ神話での結婚を司る女神ジューノ(Juno)に肖った月名がつけられた月に結婚すれば、花嫁は間違いなく幸せになれると信仰されてきた歴史に、ジューンブライドの慣わしは支えられているのだろう。
小生の青春時代には、このジューンブライドという言葉は新鮮で、耳障りが良かったように記憶している。
敗戦後、マスコミは挙って欧米文化を紹介し、そんな情報が耳目に触れるたび、大衆は煽られていた。
真似る文化と、真似ざるべき文化を判断する選択眼を養われる機会も、教育も与えられていなかったのである。
それは今にも共通しているように思えてならない。
未だにカタカナ文字やカタカナ文化に優位性をおき、自国に劣後を抱き、盲目的に取り入れることはいかがなものか。
日本では、梅雨時の結婚式より、春秋の結婚式のほうが良いに決まっている。
クリスマス同様に儀式イベント、娯楽と考えれば肩肘張って言うこともないのだが。
昨今、人前形式のハウスウェディングやレストランウェディングが持て囃されているのは、大変良い兆候である。
そもそも、日本では結婚式などというものの歴史は浅い。
元来、神や仏に婚姻の許しを得るという文化がない上に、庶民の婚姻の奉告さえ、明治後期に西洋の様式を真似て取り入れられたものであると聞き及ぶ。
仏前結婚式は、1892年(明治25年)に浄土真宗本願寺派の藤井宣正が東京白蓮社会堂に挙げた結婚式が最初といわれ、仏に結婚を誓う様式で行われた。
次に、神前結婚式においては、1900年(明治33年)5月10日皇室御婚令が発布され、後の大正天皇と九條節子様の宮中賢所大前での神前式ご婚礼がはじめて全国に報じられ、その後一般の婚礼儀式として定着したもので、百年あまりの月日しか経っていない。
つまり、それ以前の江戸時代では、結婚式は「祝言」と呼ばれるもので、神仏に誓うものではなく、人前の婚礼の儀(結婚式・披露宴)だったのである。
新郎の自宅に身内の者が集まり、高砂の老翁(おきな)の掛け軸を床の間に掛け、鶴亀の置物を飾った島台を置き、その前で盃事をして、三日三晩飲み明かすという習わしである。それは時代劇映画のシーンを思い浮かべると分かりやすいだろう。
さて、では新郎宅での祝言(嫁入婚)はいつ頃から執り行われていたのであろうか。
公家社会の平安時代は、公家も庶民も恋愛に始まる村内婚の「通い婚」で「婿取り」であったことからすると、武家社会になって、武家の嫡男とその嫁の縁組という「結納」や「嫁入り」の儀式が始まったと考えられる。
弓道の小笠原宗家は室町時代に誕生するが、弓術は勿論のこと、「小笠原礼法」という武士の作法全般に影響力を持ち、鎌倉幕府により用いられ、江戸時代まで脈々と伝承されていた。
婚礼の結納には必ず弓と太刀が贈られたり、武家間の品格を尊重した仲人制度も小笠原礼法の伝承に始まっていると聞く。村外婚が普及した武家社会においては必要不可欠であったのかもしれない。
とはいえ、武士は人口の6%程度だったわけで、9割を超える庶民にその様な作法はなく、婚儀は「嫁入り」ではなく「婿入り」に始まったのである。
すなわち、新郎が新婦宅へ三日間泊り込み、三日目に「露顕(ところあらわし)」と呼ばれるお披露目の儀礼を行い、新郎は数ヶ月の間新婦の家に通い、その後、新居あるいは新郎の家で生活するというのが一般的であったという。
また、男女双方の親が合意し、幼ない息子・娘を成人後結婚させる約束をする許婚〔いいなずけ〕婚は、大百姓や豪族、武士の間で平安時代から盛んに行われ、江戸時代では一般庶民にも広まった。
武家時代の庶民の露顕は、現在の披露宴にあたるわけだが、平安時代の公家や庶民の間の慣習に習っている。ただ、平安時代には、新郎新婦が列席者に披露されるのは妻側の関係者のみに限られていた。
こうして紐解いてみると、自由恋愛に始まり、できちゃった婚の多い現代は平安時代に戻りつつあるようにも見え、武家社会の結納、仲人などの仕来りの模倣の崩壊は自然と頷ける。
結婚情報誌のデータによると、キリスト教式が68%、神前式が16%、人前式が15%という比率で結婚式が行われているとある。
キリスト教式結婚式は戦後の高度経済成長期より流行りだし、いまだ主流となっているが、人前結婚式と露顕に由来する披露宴が主流となる日は近いであろう。
なぜなら、それが元来、日本人が持つ、婚姻の遺伝子なのだから。
1563年31歳で、来日した宣教師ルイス・フロイスは、65年に入洛し、京都地区の布教責任者として奮闘した。彼の書簡や晩年に到るまで記していた「日本史」の中で、フロイスは「日本では結婚式をおこなわない」と記述している。
結婚式がなくとも、誓いを為し、契りの感動を披露し、祝福される方法はいくらでもある。それに相応しいロケーションも京都にはある。