築城400年二条城 お城まつり
いまだ都は京に在らず
今年築城400年を迎える二条城で、「二条城お城まつりAUTUMN FESTIVAL 2008」なる催しが、9月27日より約2ヶ月間の日程で始まった。
これを聞いても、特段珍しきもの、記念すべきものと驚きを示さないのが京都人であろう。
それよりも、今年は「源氏物語千年紀」である。
こちらの方が重要であるとの認識である。いかに徳川といえども数えてたかが400年、千年を超えかつ今もその文化に親しみを覚えるものに物差しを宛てる気質が、そう感じさせるのである。
思惑以上に長い間政権を持った徳川だか、同じ四、五百年であっても、足利はん、豊臣はんや織田家など皆京都に縁のものを残している。それにしても徳川さんは、先の人らより京を大事にしてくれはらへん人やった、そんな思いも小生のどこかにあるのだろう。
加えて江戸に幕府政権が移されたときから現在まで、いや未だ暫くの間は東京時代が続くのかと。
東京時代を作っていく軌跡の一旦を残しているのが二条城にあるわけで、その意味から歴史的、文化的遺産を眺める場所が二条城であることは認める。地方に行けば、城は市民の誇りであろうし、その地方の歴史的文化的権勢を推し量るため必ず訪れるようにしている。
しかし、二条城は観光名所であっても、京の誇りであると京都人は思っていないであろう。寧ろ、小生は屈辱の思いすら持つのである。
築城においての目的は、京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営されたとある。それは二条亭と呼ばれた。中枢としての政治を行う場所でないことは勿論、秀吉時代の聚楽第の様に住まう場所でもなくなったのである。
それまでなら、天子さんがお住まいになっていた御所に対して、征夷大将軍さんが住んだ二条殿、二条御所や二条屋敷となるところだが、ここが一変されてしまった。
京を国と考えれば、江戸の大使館か領事館か、ということになったと考える。
その大使館は並みの大使館ではなかった。家康は「上洛時の館であるから、城の体を保てども、堅牢なる城は要らぬ。攻められ篭城されては厄介だ。2日ほどで援軍が間に合う程度で落とせる城で良い。兎に角早く完成させよ。」と、家臣に命じている。
更に、三代将軍家光は二条城の大改造を行い、御所を上回る規模の広さにし、本丸、二の丸、御所を見下ろすことができる五層の天守閣を備えたものにし、徳川幕府の威光と権威を示したかのようである。完成後、後水尾天皇の行幸が執り行われ、天皇は天守閣より御所を見下ろされることとなった。
平安京の大内裏に隣接する禁苑であった「神泉苑」が、二条城の外濠・内掘の水となり、その面影はわずかにしか残されなかった屈辱を覚えたのは朝廷だけではなかった。
空海が雨乞いしたのも、祇園会の鉾を最初に立てたのも御池神泉苑であったのだから、立派なお城に改造されていくことは、庶民にとっても京の経済的活性化にも関わり、有難いこともあるが、精神的屈辱感は庶民にも耐え難いものがあったであろう。
更に更に、京都人として辛いことは、家光の二条城大改造後、寛永11年(1634)7月、家光が30万7千の兵を引きつれ上洛し、入城する行列があったが、以降途絶え、何代もの征夷大将軍が任じられるも、幕末まで征夷大将軍は、御所はおろか二条城へも一度も訪れることがなかったことである。
名ばかりの形骸化された天皇の住まう都という扱いで、朝廷と幕府の関係が冷めたものになっていくばかりか、庶民の感情もさびしいものであったに違いない。
更に更に更に、皮肉なことに、幕末の第14大将軍家茂の上洛、第15台将軍慶喜の入洛は慶応3年(1867)大政奉還であり、将軍職を返上した時である。
明治維新となったが、喜びも束の間、遷都令はないものの、天皇は東京へ行かれたままである。
京都人にとっては、これは維新志士達による拉致同然といって過言ではないのである。
御所は世界文化遺産に登録することなく、天皇のお帰りを待っている。
そんな歴史の皮肉を、秋の行楽に、世界文化遺産二条城より京の街を見下ろし、是非感じ取ってもらいたい。
二条城お城まつり 2008
http://www.city.kyoto.jp/bunshi/nijojo/fes08-index.html