あじさい寺に宇治十帖
源氏物語をフィールドワークし、いつの世も変わらぬ人間模様を垣間見る
梅雨真只中、晴れ間を見つけての行楽となると、まず、あじさい見物をおいて他にはない。
京のあじさい寺といえば、宇治にある修験宗別格本山の三室戸寺である。
毎年6月1日にあじさい園が開園され一ヶ月半の間楽しめる。
色付きも進み、見頃が近づき、ライトアップの試験点灯にも余念がないようだ。
休日が晴れ日となったので早速に出掛けた。
参道近くでは茶だんごや焼き山栗の露天が出されていた。
山栗の文字に幼少の頃を思い出し、懐かしさのあまり買い求めた。
西国十番三室戸寺の石碑から朱の山門までの参道を、山栗の殻を割りながら歩く。
朱の山門を潜ると、右すぐ前方のなだらかな谷あいがあじさい園である。
歩を進めるごとに、垣根の下に広がるあじさいの青や紫がだんだんと見えてくる。
まるで運動場に描かれた千切り絵のようにも見える。
そのまま直進すると、「よう おまいり」と、ひょうきんな書体で刻まれた石標を真ん中に、左が上り右が下りの急勾配の石段があり、そこを上がると重層入母屋造りの本堂が現れる。
本堂迄に敷かれている石畳の周りは蓮園で、昨年に訪れたとき、蓮園越しに見る本堂との光景に、極楽図が浮かんだのを未だ覚えている。
この日は、お参りの前に、右手のあじさい園に下りた。
五千坪の庭園のおよそ半分の山手はつつじで、谷間からは杉木立が青空の天を目指し背伸びしている。その谷間一面には一万株のあじさいが咲き乱れていた。
30種のあじさいの名は全く分からないが、咲いている花が梅雨の雨水をたっぷりと吸い上げ、その花びらを虹色に輝かせようとしていることだけは、よく分かる。強い陽光を浴びていても、淡く優しく照り返す姿に頬も気持ちも和んできた。
三室戸寺にやってきた今回のお目当ては、もひとつあった。
源氏物語五十一帖、浮舟に関わる「浮舟之古蹟碑」があると耳にしたのだ。
まだ一帖しか読めていない故、「浮舟」と云われても皆目見当つかず、前日あらすじ本を探し、目を通したばかりである。
浮舟のあらすじを要約すると、
浮舟のことが忘れられずにいた匂宮(今上帝の子)は、妻のもとに届いた文を見て居所を知る。忍び姿で宇治の山荘を訪れた匂宮は、薫(光源氏の子)を装い浮舟と強引に契りを結ぶ。人違いに気づいた浮舟は嘆くが、心は次第に情熱的な匂宮に惹かれていく。それを知った薫は山荘に厳重な警戒態勢を敷き匂宮を遠ざけた。匂宮からの京に迎える約束を母に相談する事もできず、薫からは恨みの歌を送られ、板ばさみになってしまった浮舟は遺書を残し、人知れず宇治の山荘を去った。
この山荘跡が三室戸寺なのか、と思いきや、源氏物語は創作である。ならば紫式部がモデルにしたところなのか。全文を知らないまま、期待を膨らませ種々想い巡らした。
「浮舟之古蹟碑」は、鐘楼の前にあった。縁が記されていないので尋ねてみた。
「奈良街道沿いにあった浮船社から移されたものです」と。
浮舟之古蹟を始めとして、宇治十帖の物語に登場する場所を読み解き、空想し定めていったのは江戸時代初めの頃のようだ。虚構の世界を現実の場所に置いてゆくほどに、人々に読み継がれ、愛される人気作品だった証明でもある。
創作といえども、著者が知る事実や、訪れた場所がたたき台となっていることは容易に想像がつく話である。また詮索探求したくなるのも世の常である。著者は平安王朝の人であるから聞くこともできず、時代ごとの読み手により場所が変わっても何も可笑しくはない。
古蹟碑について、どこまでも源氏ロマンとは分かりつつも、ついつい起承転結をつけながらのフィールドワークにしてしまいがちである。このあたりが凡人の域かもしれない。
ありそでなさそで、あるやもしれないところがロマンとすれば、辻褄の合わぬことも知らぬ間にトリップしたいものだ。
そのあと、源氏物語宇治十帖のロマンの地 残る九箇所と源氏物語ミュージアムを訪ねて後、帰宅した。
現代語訳や注釈に目を通しながら古蹟碑を歩いたが、宇治を舞台に展開する恋のライバル話に、王朝時代の背景を知り、いつの世も変わらぬ人間模様や人の本性を垣間見、人の愚かさ儚さに気づくことになった。
自らの現在の日々をはかり知る上に、貴重で有効な一日であった。