顔見世のまねき
とうとう師走 来年のことを鬼も見る
「師走だな」と思わせるもの。
(X’masの)ツリー、紅白(歌合戦の組表)、年賀状(のCM)…。
昨今では大晦日の格闘技の対戦相手の発表も加わろうか。
京都の師走といえば、7日には千本釈迦堂の「だいこ焚き」に出かけ無病息災を願い、13日に芸舞妓の「祇園事始め」などを目にすると、「おせちの準備は大丈夫かいな」となり、21日の「終い弘法」や25日の「終い天神」で買い足すもののメモを取る。
慌てず騒がずが京都人の美徳だとしても、俄かに気忙しく追い立てられる時期ではある。
数ある京の師走の風物詩の中でも、目を引かれるのは南座の「まねき」。
仕事に追われていても、四条通の川端あたりに差し掛かると、年の瀬の華やかな装いをした、劇場正面を埋め尽くす「まねき」看板が、否応なく目に飛び込んでくる。
目出度そうなその文字に、とうとう年の瀬を迎えるなと思い、晴れやかな新年を思い浮かべるのもこの時である。
看板には当代随一の歌舞伎役者たちの名がしたためられ、その太く丸みを帯びた独特の書体で隙間なく、筆のハネに当たるところは内に内に巻き込むように勢いよく運ばれている。黒々と光り躍ったこの文字に気づかない人は誰一人としていないだろう。
この文字。これは勘亭流と呼ばれるもので、お客さんが劇場の中に隙間なく入り、大入りで招福円満となる願いを込めた縁起の良い書体だと言われており、白木の板に、酒とニカワが入れられた墨で書かれている。
このまねき看板は江戸元禄の頃より、毎年11月に歌舞伎役者名を一人が五日間を要して書き上げているとのことだ。
高さは背丈を越える一間(180cm)ものであるが、書き損じは許されないらしい。
小生のように常に書き損じるような者では、仮に勘亭流を習得したとしても、白木が何枚あっても勤まらないだろう。
さて、芝居見物どころではないこの気忙しい師走に「顔見世興行」とは、まるで「既に正月気分ではないか」と、その賑わいを不思議に感じられている方も少なくはないだろう。
まず、歌舞伎界では「顔見世」が一年の最初の公演で、幕開けである。
旧暦の事始めをまたいで、一年間の一座の顔ぶれを披露し、劇場小屋の命運をも占う興行となっていたのである。
また、歌舞伎役者は元禄の頃より11月に翌年1年間の:証文(契約)を更改するのが習わしとなっていた。その上で12月には年末年始の顔見世となるわけだ。
阿国が歌舞伎を確立して以来、公許された七座(1615〜1623年)の櫓(やぐら/劇場芝居小屋)は、競って新年の演者を披露した。それを知らせるのが元禄時代(1688〜1703)の顔見世のまねきである。
どこで誰が演じるのかがお客には最大の関心ごとで、まねきが上る頃には、千両役者が新年にどこの櫓に出演するかという噂話が、市中には絶えなかったようだ。
人は集まりまねきを見上げ、こぞって顔見世興行を楽しみ、新年を迎えた。
その櫓で現存しているのは、「南座」のただひとつである。
劇場の屋根の上には櫓がある。その上には神が降臨するといわれる美濃紙でこさえられた二本の梵天が、天に突きあがるように伸びている。この梵天と劇場前の大提灯は毎年この時期に新調され、まねきが下ろされた後も、次の顔見世までの一年間据え置かれるのが習わしである。
こうして、顔見世興行は京都の町でのみ途絶えることなく今も継承されている。
今年の『當る子歳 吉例顔見世興行』は、二代目中村錦之助襲名披露ともなった。
まねきには、初代錦之助の映画界転進以来、27年ぶりの札が上っている。
南座について (松竹)
http://www.shochiku.co.jp/play/minamiza/gekijyo/
二代目中村錦之助襲名披露 記者会見
http://www.theaterguide.co.jp/pressnews/2006/12/21_2.html