魯山人の光と影 / 京の街を歩く
魯山人を京都で偲ぶ
1959年10月「魯山人書道芸術個展」が京都で開かれる。
その2ヶ月後、12月21日、北大路魯山人は76歳で他界した。
生前最後となるそのパンフレットには、「或る会合で、いよいよ小生も人生の終点に近づいたやうだと云ったところ、それを待つものは多々あるぞと云はんばかり、得意の面もちをする瓢きん者もあって、人気の出るのはこれからだと露骨なことを平気で云ふものも出る始末、正に不徳の致すところだと自分に感ずる」と、逞しさや爽快さを欠いた彼らしくない謙虚な言葉を記している。
情容赦ない毒舌と傲慢な態度で、その高慢痴気さに嫌悪感をもたれ、人に遠ざけられた男の影をも感じさせない表現で、懺悔の感さえするのだ。
類稀なる美的感覚で独自の世界観を打ち立てた男も、年輪を重ねると辿り着く普遍の心境なのだろうか。
その独白が、べっ甲の丸縁眼鏡をかけた吊りズボン姿の魯山人の晩年の写真と重なる。
個展の翌月4日、鯉の洗いでも食べたのであろうか、淡水魚に宿るといわれる肝臓ジストマによる肝硬変を患い、横浜十全病院(現横浜市立医科大学)に入院した。
療養の甲斐なくその翌月21日に逝去、京都西賀茂の来迎山大船院西方寺の墓地にひっそりと眠っている。
西方寺は西賀茂船山の麓、鎮守庵町にある浄土宗の檀家寺である。
大文字の送り火「船形」を点す合図の鐘が鳴らされ、火が落ちた後に六斎念仏が唱えられる事で知られているお寺で、小谷墓地には幕末の歌人太田垣蓮月尼、鉄道唱歌の作曲者多梅雅(おおのうめわか)や上賀茂神社の祠官賀茂家など社家の墓石も見受けらける。
人間国宝にも選ばれ、名を成した者とは思えない程の質素なお墓で、弔う遺族とも縁が薄いようだ。四回もの離婚をし、57歳より独身であった魯山人。
皮肉なことに不義の子魯山人の命日は、魯山人の出生を待たずして恥じて自害した戸籍上の父北大路清操(きよあや)と全く同じ日であった。
一生涯を孤独とともに過ごし、資産をも投げ捨て狂気なまでに「食と美」を追い求めた魯山人の墓の前に立つと、あまりにも寂しすぎる。
しかしながら、その美の痕跡は今も京都の町々に生きている。
これからの時季なら、南禅寺の「瓢亭」に行けば「織部紅葉角皿」に瓢亭玉子と鮎うるか焼きなどが盛られた八寸が季節を知らしてくれるだろうし、嵐山「吉兆」なら魯山人が焼いた器は数多い。何せ、名もない魯山人が吉兆の前身である大阪畳屋町のカウンター割烹料理に足繁く通っていた頃、飲食代の代わりに、自作の陶器をダンボールに詰めて送ってきていたという話はあまりにも有名である。
使うより作品を鑑賞したいと思えば、祇園花見小路四条東入る北側にある「何必館(きひつかん)・京都現代美術館」に行けば常設北大路魯山人作品室が常設されている。
わざわざ入館しなくとも、烏丸姉小路を東に入れば、柚味噌製造販売八百三の看板が否応なく飛び込んでくる。「柚味噌」と揮毫された篆刻看板をじっくりとご覧あれ。
魯山人の直筆を掘り込んだ作品とも呼べる看板が、惜しげもなく掲げられている。
更に姉小路通を東へ麩屋町通まで行くと、北西角に古びた佇まいの平野とうふ店がある。ここに入り「お揚げ」を買ってみてはどうだろうか。
28歳に京都に戻った魯山人が好んで通った豆腐屋さんである。
ここの「お揚げ」を網で焼いて縞の焦げ目を付け、大根おろしを添えて、魯山人は食して
いたのである。因みにこの美食を「雪虎(ゆきとら)」と呼ぶ。
そして、更に東へ寺町通に出て、南に三条通まで下がると「三嶋亭」である、若き頃の「魯山人風すきやき」を味わうのも偲び方であろう。
今宵小生は、小粒納豆を向付に入れ305回かき回し、醤油を入れて更に119回、合計424回かき回して、糸が切れた当りでネギと和ガラシと少々の砂糖を入れて食べることにする。これは「魯山人納豆」と呼ばれるものである。
京都吉兆
http://www.kitcho.com/kyoto/
何必館・京都現代美術館
http://www.kahitsukan.or.jp/
柚味噌八百三
http://www.marutake-ebisu.com/archives/2005/07/post_37.html
平野豆腐
http://www.onozomi.com/book_kyoto2/tohu/topic2_1.html
三嶋亭
http://www.mishima-tei.co.jp/