織田信長を訪ねて 総見院・本能寺・二条殿
盛り場の、繁華街の、市役所の、ちょっと行ったとこで信長に出くわします
羽柴秀吉は、亡骸のないまま天下に向けて信長の本葬を行い、遺品などを集め一周忌に大徳寺総見院を建立した。家来として親方様の追善供養することと、信長の後継者としての地位を確固たるものにすることと、いずれが真意であったかは秀吉に聞くしかない。
墓地には荼毘にふされた棺の中の木像織田信長の五輪塔と一族の五輪塔が建ち並び、本堂の内陣正面中央に残されたもう一体の木像織田信長座像が安置されている。
また、表門と周囲の土塀は創建当時のものとかで、塀の中に塀があるという珍しい二重構造の「親子塀」に、信長の家臣堀久太郎寄贈の鐘楼が重なり、今も寺院を取り囲んでいる。
この総見院を信長の菩提寺と決め、信長の没後、信長に太政大臣を贈号する正親町(おおぎまち)天皇からの使者を総見院に迎え、公の唯一の墓所と認めさせたのも、権力を手にしていた羽柴秀吉だったのである。
知る限り、菩提寺は先祖のお墓がある寺院、あるいは先祖の供養のために新たにお墓を求めた寺院であろう。つまり、親族や本人が定めていくのが常である。
信長が新たに定めていなければ、尾張国の父織田信秀の菩提を弔っている万松寺となる。しかし、信長公記に、織田信秀の法事の際、信長は仏前で抹香を投げつけたとあるというから、信長は先祖の菩提寺に自らの墓地を求めておらず、かつ自らも菩提寺を定めていなかったと思われる。
信長の草履を懐に入れ暖めた頃より戦国武将に至るまでの信長への忠誠と人情からも、ましてや、毛利軍と対峙する秀吉を救援すべく中国戦線へ向かう途中に立ち寄った本能寺において、奇襲を受け自害せざるを得なかった親方を弔い、追善供養することに、誰に遠慮がいるものかとの捉え方もある。
秀吉は信長の四男秀勝を養子としていた。そして喪主を羽柴秀勝とし、棺の前を池田恒興の嫡子・輝政に後ろを秀勝に担がせ、位牌を信長の十男信好、信長の愛刀を秀吉が担ぐ3000人の葬列で、五山をはじめとして洛中洛外の禅僧や諸宗の僧侶の数もはかり知れぬほど集め本葬を執り行った。
本能寺の変から4ヵ月後の天正10年(1582年)10月15日に前後七日間を要して行われた盛大な葬儀をいかにみるか、追善供養されている総見院の信長公廟をいかにみるか、人それぞれにあろう。
因みに、本葬の前月9月11日、妙心寺で柴田勝家と信長の妹お市などの手で百日忌が営まれ、重臣の滝川一益は玉鳳院に信長父子の供養塔を建てた。その法名は当初「天徳院殿龍厳雲公大居士」で、阿弥陀寺清玉上人が命名した「天徳院殿」の流れを汲むものであるとも伝えられているが、供養塔にその文字は見られないと聞く。
また、本能寺の変直後の7月3日、三男信孝は本能寺の焼け跡で収集した多くの遺骨や信長の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定め碑を建て供養したと伝わる。
信長父子を失った織田家中は、信長の次男信雄、三男信孝の主導権争いでの派閥抗争の内に、本葬が行えず、亡き長男信忠の嫡男三法師(後の織田秀信)を擁立した秀吉が後継の権力を掌握することになった訳である。
信長の一周忌の法要を終えると秀吉は、信長の太刀や烏帽子などを取り揃え、安土城の伝二の丸に信長廟を建立し、織田家の家督を継がせた幼い三法師を都より遠ざけることを考えたとも伝えられている。
諸説あるとはいうものの、信長の霊はこれら秀吉の狡猾な策謀を、喜んで笑って見ているのだろうか。
三男信孝が追善供養に建てた碑に手を合わすべく、本能寺に行くことにした。
河原町三条を上がると西側に「信長公御廟所」へ続く路地がある。
その路地は本能寺本堂の裏につながり、境内を経て寺町通へ抜けられる通用路になっている。
路地を進むと、行く手を塞ぎ天を隠すような大木が立ちはだかっている。
その右手に入母屋造りの廟屋がある。そこには、河原町通のビル裏を背にして供養塔が西向きに建っていた。
廟屋から拝み覗くと、三男信孝が建立した碑と思われる古ぼけた石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。四条坊門より移されてきたものであろう。
石塔に刻まれている法名が気に成りだした。廟屋を出て石塔に近寄った。石の表面に目を凝らし判読し始める。角度を変え見つめ直した。院号はどう見ても「総見院」である。
自害して1ヶ月の時に建立されたものなら、清玉上人のつけた「天徳院」と刻まれているとばかりに期待していたのであるが、どうやら秀吉に書き替えさせられたのだろう。
四条坊門から寺町に移転の命が下ったときに、削りなおすか、再建されたことになる。
石塔の裏に廻ると、「信長公」と俗名が彫られていた。現在の習わしにある建立者の名が刻まれる位置である。裏表をひっくり返して、裏に「総見院」と新たに刻み、表の「天徳院」を削り信長公と刻み、裏返しに組み直したように思える。
北隣には本能寺の変戦没者合祀墓があり、焼け跡で収集した多くの遺骨が埋葬されており、その合祀者の名が木札に記されていた。
境内は本堂を除いて、講堂、方丈も宝物館と同じくコンクリート造で再建されており、愛刀や陣羽織、書状や肖像画、天目茶碗など愛用品が展示されている。
境内には御池通と寺町通にも出入り口があった。寺町通側が本能寺の表玄関である
。
表門から出て寺町通の商店街を南へ蛸薬師通まで下り、右手西へ油小路に向かった。
いわゆる三条坊門から四条坊門へと移動し、明智光秀の軍勢に奇襲された本能寺址の空気を吸うためである。
小川通蛸薬師の南西角に石碑が見えた。辺りの数ブロックを歩いた。一帯は東西南北ともに本能寺町の住所標識がつけられていた。往時の本能寺の広さがいかに広かったかがわかる。
清玉上人は大宮今出川にあった阿弥陀寺から、嫡男信忠は西洞院二条にあった妙顕寺から、信長を救わんと、この四条坊門の本能寺址に思いを馳せたのかと感慨深いものを感じた。
西に陽が落ち出した。この足で、信忠が篭城自害した二条殿址へと急ぐ。
烏丸御池北東に「二条殿交番所」がある。きっとその辺りに石碑がある筈である。
二条殿が炎上したあと、信忠の菩提を弔う龍池山大雲院が創建されたところで、その後近代には龍池小学校となり、現在は京都国際マンガミュージアムとして市民に親しまれているところである。
探すより聞くほうが早いと職員の方に聞くと、両替町通側に石碑が三つ建っているという。
あった。確かにあった。二条殿址の石碑と、徳川時代の名残である金座遺址、銀座遺址の文字が刻まれた石碑である。
室町幕府尾張国清州城主織田信友を主君に、次に尾張国守護職斯波義統(しばよしむね)を主君に、更に室町幕府最後の征夷大将軍足利義昭を主君にと、下剋上の戦国時代を駆け上った信長も義昭を京都から備後へ下向させ、新時代を築かんとする前に去った。
そして、秀吉は義昭を将軍職として入洛させ、その職を辞させ、豊臣政権確立後の山城国槙島の大名として余生を送らせた。
いったい信長の霊はどう思っているのだろうか。
猿に激情するも、「似るも非なり」と苦笑いしているのだろうか。