秋の夜長 夜間開館の博物館がない
人それぞれの芸術パワーが生活の場に結びつけていけるものであると、いいなぁ
猛暑日が続くとはいえ芸術の秋がやってきた。
仕事を終えて、美術館に出かけようにも既に閉館時間を過ぎている。
どうしてナイトミュージアムがないのか不思議である。知る限りでは、六本木ヒルズの森美術館だけではないだろうか。京都でも是非実現して貰いたい。
仕事帰りに開いているところといえば、映画館にレンタルビデオ店か、京都劇場などの夜の部の観劇、京都会館などの貸会場でのコンサートや催事、あとは街場のライブイベント、時折ある寺院の夜間拝観、こんなところである。
それは芸術というより娯楽だろと、いう人もいる。
否、小生にとっては、芸術も娯楽も一緒であって、学究的な側面の違いはあれど、楽しませてくれれば、喜ばせてくれれば、明日への元気をくれれば、然程の大差はない。
それより、コンビニもスーパーも百貨店でさえも、仕事帰りに立ち寄れるのに、美術館や博物館に立ち寄れない現実の方が疑問である。
区役所へ昼休みに出かけ、住民票発行の申請受付がして貰えなかった時代と同じ感覚である。
一体誰のために何のために存在しているのかと考えると、苛立ちと矛盾さえ覚える。
苦情ではなく、国民的文化高揚のために、そうして貰えると嬉しいな、という話に留めよう。公益法人の方々はアカデミックで、権威のある方々なので、お願いする方が実現が叶うだろうから。
さて、学生時代に芸術といえば、音楽、美術、書道という授業があった。
演劇部という部活があり、舞台芸術、舞台美術という言葉もあるが、どちらかというと芸能という範疇で捉えられていた。映画部というのも類似していて、芸能か芸術かが曖昧だった。
社会に出て芸術を為している人は、音楽家、画家、書道家と呼ばれ、作り手には演劇家、映画家と使うが、演じる者は役者、芸人、芸能人と呼び、芸能家という言い方を聞いたことがない。
しかし、漫画家、落語家というのは普通に使われている。
○○家とつけば、道を極めた大層偉い人のように響くのであるが、政治家、評論家と言えば、信用ならない印象を持つように時代が変わってきているから、言い習わしと思い込みは修正をせざるを得ない。
もっとも、○○家と名乗るのに法律的な制約や資格試験があるわけでなく、表彰や褒章が条件でもなく、真にあやふやなもので、いつでも誰でも自称できるもので、多少の実績があれば他称されることさえある。
あらためて、芸術って何だろうと、ふと過ぎる。
あやふやな説明文句が脈絡なく並び、頭の中で回転するが簡潔に起承転結させられない。
命題が大まか過ぎるのか、といって根源的な問いかけになると、更に難しくなる。
芸術に携わる人、関わる人たちはどう考え、どんな夢を持ち、どんな使命感に燃えているのだろう。
小生が思うに、ただ見て味わうことの価値が見出せれば、全て芸術であるといっては暴言と言われるのであろうか。
人が味わい、感動し、明日に生きるヒントや光りを感じれば、全て立派な芸術だと言えまいか。
高額な価格で売買されたり、宗教的、歴史的に珍重されたり、国や地方の行政の誇りとして評価されたものだけが芸術である筈はない。それらは美的価値を創造し、表現されたものの一つで、大切な遺産であることに間違いはない。
ところが、美的感覚は時代とともに移ろいやすく変遷するのが常で、時代を代表する美の一形態であっても、必ずしも普遍の美とは言い難いのではないか。
2008年の広辞苑(岩波書店第六版)は、やっと芸術の意味をこう書き換えた。
芸術 1.[後漢書孝安帝紀]技芸と学術。2.(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、鑑賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。絵画・彫刻・工芸。建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを指す場合もある。
芸術の定義が、「美的価値を創造・表現」から「鑑賞的価値を創出」と変わったのである。
つまり、芸術や美術は必ずしも美とは関係なく、鑑賞に値するか否かという観点としたのである。
芸のスタート地点間もないアイドルタレントやミュージシャンまでもが、アーティストと自称、他称される近年の風潮も否定できなくなってくるのである。
実にシニカルなことなのだが、より多くの国民に明日を生きるエネルギーを与える使命をもって、道を極めんとするものなら、喜ばしいことかも知れない。
博物館は文化芸術に寄与するのに、一枚何十億という資金を投じて、有名画家の遺作を買い集める必要はない。
買うなら、将来有望な、優秀な芸術家の作品をどんどん買い上げ、世に問い、知らしめ、育てて貰いたい。ピカソやゴッホの絵を買って世に問う必要などはないのである。
もっとも、身近にピカソをいつでも鑑賞できる環境はありがたいが。
それは投資家、資産家に任せておけばよいのである。公立の美術館であればなおさらのことであろう。
ピカソは買い上げて貰っても、今や喜ぶわけがなく、ピカソの絵に投資していたものを利するだけに過ぎない。
著名な絵や作品を保有することが館としてのステータスのためなら、不毛の芸術といっても過言でないだろう。勿論学術的な研究調査、それらの視点による企画展を非難するものではない。それに偏重するぐらいなら、企画は新聞社や美術団体に任せて貸会場に徹することも考えられるからである。
博物館や美術館は若い芸術家を育て、新たな価値観を探り、時代の危機を風刺し、来る世の新たなビジョンを示唆させることが、それらの視点を広く国民に提供し、啓蒙していく機関であって貰いたい。
そして、政治や行政、一般人が気づかぬ、見落としているものを、具象的に暗示示唆する鑑賞の場と機会を提供して貰える博物館や美術館であって貰いたい。
国民が国家と自らの生きる道筋を見つけ、確認し、生活の場に結びつけていけるものであると、いいなぁと思う。それが芸術のパワーなのである。
嬉しいことに、京都では敷居の高い権威主義的な箱物の博物館に囚われることなく、京都に根ざした芸術家達の作品を所蔵し、保管展覧する博物館も数多く、各々の分担が守備されている。また、小学校跡を利用した博物館が芸術育成の場として、発表の場として幅広く展開している。
そして、京都芸術センターや京都国際マンガミュージアムなどのように、先端の現代美術や漫画、フィギアなど新芸術の発信の場ともいえる活動も見受けられ、間違いなく京都の博物館の明日に期待が持てるのである。
秋の夜長に訪ねられる博物館、博物館でのトークにコンサート、身近に遊べる博物館の夜が訪れるのはいつのことだろうか。