春の六斎念仏
斎戒謹慎、ネットを捨て街に出よう
ゴールデンウィークは、祭、祭、神輿、神輿の日が続く京都である。
その間を縫って、是非子連れで出かけたいのが春の念仏踊りである。
原稿を書く傍らで、罰則強化の鮮明となった少年法改正が報じられている。
たとえ少年であろうと、重大な犯罪であれば相応の償いをするのは当然だと同調するが、罰則強化だけでは必ずしも事件の抑止とならないはずである。
犯罪事件の背景にある、対戦戦闘ゲームやSNSを介したインターネット遊びの落とし穴など、陰湿ないじめを助長するものへの歯止めに注力せずして、少年少女の内省や罪の意識に期待することはできない。ネット殺人予告やネット殺人請負のニュースなど厭きれて言葉を無くしてしまう。
教育と躾と遊びが崩壊している証のような事件ばかりで、憤怒の限りだ。目に留まる事件の度に、自暴自棄な犯行にお悔やみを申し上げる術もなく、痛恨の極みである。
身内の幼子が、念仏踊りを解ろうとも解らずとも、そんなことは何れでもよく思えてきた。面白ければ笑い、悲しければ涙し、楽しければはしゃぎ、怒りたければ理を発し、人を労われ、ありがとうと、そう言える人間に育って貰いたいからである。
念仏踊りや狂言を見聞きする中で、人間の掟を解らずとも自然に刷り込まれていくと信じている。戦闘ゲームソフトで高得点を獲ることより、日本昔話を話せる幼子であって貰いたい。
4月29日から7日間は、壬生寺で春の大念佛会が行われる。壬生さんのカンデンデン(壬生大念佛狂言)は大衆娯楽として親しまれてきたが、元来、本尊である延命地蔵菩薩に奉納する法要で、正安2年(1300年)より現在まで、途絶えること無く連綿と続けられてきたものである。
今年の節分に願い事を書いて奉納させて貰った炮烙(ほうらく)が、午後一番の演目の中で舞台から落とし割られる。災厄が落とし除かれ晴れて祈願成就となる。これが「炮烙割」である。
奉納した炮烙がいつ落とし割られるかは分からないので、7日間は気が許せないことになる。割れなかったら嫌な事だが、あの落ちる迫力からすると万事休すである。
壬生大念佛講 講長 松浦俊海さんは、「娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残しています。」と、記されている。
鉦と太鼓と笛で奏でられる素朴な囃子は自然と心に届き、面を着けた演者の台詞のない劇は、その素振りで誰にも教えを説くことのできる方法だったのである。
壬生狂言は鎌倉時代に、壬生寺を大いに興隆した円覚上人(1223〜1311年)が融通念仏を変化させ始められたもので、その教えを見ようと数十万人にも及ぶ群集がはせ参じたと伝わる。それより円覚上人は「十万上人」とも呼ばれていたという。
狂言や融通念仏のルーツは踊り念仏で、六斎日に唱えられた念仏踊りが「六斎念仏」と呼ばれている。
踊りながら念仏を唱えれば死者供養に留まらず、現世を生きる誰でもが、ともに極楽浄土へ行けると説いている。
その六斎念仏には芸能六斎と念仏六斎があるが、お盆にはその六斎念仏踊りが各所でそれぞれ行われ、十団体の保存会が十数か所の神社仏閣へ出向いている。
春に六斎念仏が見られるのは四箇所である
既に山崎聖天(乙訓郡大山崎町)と嵯峨釈迦堂(右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)は終わっている。残る一つは4月25日の吉祥院天満宮(南区西大路十条西入ル北)、もう一つは4月29日の伏見稲荷大社御旅所(南区西油小路東寺道角)である。
お盆に催される六斎は見て回っているが、春の六斎は今年が初めてである。
春の宵に幼子の手を引いて、まず吉祥院天満宮春季大祭で奉納される吉祥院六斎念仏踊りということになる。
菅原道真公のへその緒が納まる胞衣塚(えなづか)のある菅原家の邸宅地跡にあたるところだ。昔から六斎念仏が盛んなところで、緑豊かな境内には舞楽殿もある。
道真の祖父清公が遣唐使の帰りに、海難にあった折吉祥天女の霊験を得て救われたことから、菅原家の氏寺として吉祥院を建立した。。その後承平四年(934年)、同地に朱雀天皇により刻まれた道真公の像が祀られ、吉祥院天満宮が創建された歴史を持つ。
4月29日夕刻7時半には、稲荷祭の御旅所で氏子奉納の中堂寺六斎念仏踊りが演じられる。
稲荷祭(稲荷大社)は五条通を境に南北を祇園祭(八坂神社)と二分する氏子域である。その御旅所は、「石玉垣」に囲まれうっそうと樹木が茂っているが、普段の静けさとは様変わりし大層賑わう。
神輿駐輿中の境内は、縁日さながらの屋台が立ち並ぶ。弘法市からしても、東寺の守護神である稲荷大社の参道からしても、縁日屋台に馴染み深い所で、今も寂れていない為かもしれない。
バーチャルな液晶画面の遊びから離れさせ、リアルな遊びに触れさせる絶好の機会である。金魚すくいにも、ヨーヨー釣りにも、リセットボタンがないことは分かるだろう。
バーチャル戦闘ゲームでは、リセットボタンひとつで、相手も自分も直ぐに生き返れ、痛みの実感など伴わない。そんな刷り込みが幼子に宿らないことを祈る。
人は一人では生きられない。悲しみを共に分かち合い、喜びを共に喜びあう家族があってこその一生であることが・・・自然に育まれていってほしいと願う。
古今東西、それが普遍の歴史であったはずである。