木戸孝允と京おんな
おんな抜きで歴史は進まんのぉ
この坂を坂本龍馬の遺体を乗せた葬儀の列が続き、霊山の墳墓地(霊山墓地)を目指したのかと、東山龍馬坂の急な勾配を歩く。振り向けば八坂の塔が見える。
この周辺で縁の地といえば、反幕府勢力の各藩志士代表者の会議の持たれた翠紅館跡がある。翠紅館は、天保年間(1830〜44年)に西本願寺の所有となり、桂宮淑子内親王の非常時の避難所としていた西本願寺の別院であったため、幕吏はうかつに手を出す事が出来ないところだった。現在は、「料亭 京大和」となっている。
霊山墓地に入ると、坂本龍馬・中岡慎太郎の墓碑のほか、土佐藩吉村寅太郎、長州藩高杉晋作、久坂玄瑞、大村益次郎、伊藤博文や小浜藩梅田雲浜、肥後藩河上彦斎、水戸藩江幡広光など各藩志士の墓碑が立ち並んでいる。
小生には笑い話のような語り草にしている滑稽な話がある。
霊山墓地の墓碑を訪ね歩いていると、桂小五郎・幾松の墓地の案内板に出合う。
矢印に導かれ進んでいくと、霊山の中で最も高い場所に辿り着く。
そこにも案内板が建つ。辺りを暫く探すが、一向に桂小五郎の墓碑は見当たらない。
登りつめたところにあるのは「内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允墓」との立派な墓碑である。墓地内の木戸孝允(きどたかよし)の墓碑の左横には「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子墓」と刻まれた墓碑があった。
「桂小五郎・幾松の墓はどこやろう、案内板しかないなぁ」「これより上に墓はないよぉ」
木戸孝允の墓の前を行ったりきたり、友人と何回したであろうか。
「アッ そうか ! 」「ええッ そうや ! 」「松子の松は、幾松の松や」
恥ずかしながら、桂小五郎と木戸孝允が同一人物であることを知ったのは、その時であった。今から10年前のことである。
幾松は勤皇志士たちの為に宴席での情報収集に努めた勤王芸者の代表的な一人で、玉の輿にのった京おんなである。
桂小五郎(1833〜77年)は長州藩主・毛利敬親の命により慶応元年(1865年)9月木戸寛治と改名、後に準一、維新後に木戸孝允と名を変え、幾松は長州藩士・岡部利済の養女となり松子を名乗り、明治3年(1870年)正式に入籍、妻として迎え入れられた。
それもそのはずと頷けるぐらいに、桂小五郎を支え、助けあい、倒幕の影の立役者と呼ぶに相応しいエピソードは枚挙に暇がない。
小五郎が池田屋事件で新撰組の襲撃を免れ、幾松に匿われたあと淀に逃げ、再び京に潜伏し、乞食に身をやつして二条大橋の下に身を隠していた頃、幾松は長州藩御用達の大黒屋今井太郎右衛門宅で握り飯を作り、新撰組の目を盗み二条大橋へ届け続けていた話、更に近藤勇(1834〜68年)と小五郎を匿う幾松との長持前でのやり取りの話は夙に有名である。
久しぶりの小五郎との逢瀬に浮かれ気分で酒を買いに出た幾松は、暗闇の御用提灯に「誠」の文字を見たとき、近藤勇率いる新選組が長州藩控え屋敷に踏み込むことを察知し、小走りに引き返し、二階に駆け上がるや部屋の長持の中に小五郎を隠れさせた。
「御用改めである!神妙にしろ!」
近藤勇の太い声が長州藩控え屋敷に響き渡った。すでに屋敷は新選組隊士に囲まれ逃げ道が塞がれ、押入れや納戸、雪隠に至るまで、捜索は執拗を極めたが、小五郎の姿はどこにも見当たらなかった。その時である。
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも〜 鳴かぬ蛍が 身を焦がす〜
三味線に乗せた唄声が「幾松の部屋」から漏れ聞こえた。
近藤は部屋に入り込むや即座に、幾松の背後にある長持の蓋に手をかけようとすると、三味線のバチが近藤の手を思いっきり叩きのけた。
「お初にお目にかかります。新選組局長、近藤勇はん・・・どすな。これほど屋敷内を改めて、うちに恥をかかせた上、もしも、この長持の中に誰もいないとなれば・・・。近藤はん、責任とって、この場で切腹してくれはりますか。その覚悟がおありどしたら、どうぞ改めておくれやす。」
顔色一つ変えず幾松は睨み返し、そう言い放った。
「流石、三本木の幾松、噂に違わぬ女丈夫だな。桂小五郎ほどの大物が贔屓にするだけの事はある。幾松殿、今日の所はあんたの顔を立てよう。済まなかった。」
そう言って豪快に笑い、近藤は隊士達を率い、あっさりと長州藩控え屋敷を後にしたと伝わる。
幾松の大芝居、その心意気を酌んだ近藤勇、いずれもなかなか天晴れなものである。
今の日本人には見られなくなった余裕を感じさせられる。
その場所は木屋町通御池上る上木屋町にあり、現在は料理旅館「幾松」として営業している。長州藩控え屋敷の名残を表す吊り天井や、抜け穴、飛び穴などが保存され、説明もしてもらえる。
誠に興味深い京おんなであると思い、生い立ちを調べてみた。
木戸松子(1843〜86年)は若狭国小浜藩士・木咲市兵衛と医師の細川益庵の娘との間に長女として生まれ、父の市兵衛が藩内の事件から失脚し病に伏した為、貧しい生活の口減らしに7歳で一条家諸太夫の次男・難波恒次郎の養女に出された。
難波恒次郎は定職を持たない放蕩三昧の生活で元・京都三本木の芸者幾松を身受けして妻とし、妻の実家に居候していた。
養父の成り行きから花街に身を置くようになった計(かず/後の幾松・松子の幼名)の波乱万丈の生涯の始まりである。
養父恒次郎は遊ぶ金欲しさに14歳の計を三本木の「吉田屋」の芸妓に出し、二代目幾松を名乗らせた。
幾松は置屋「瀧中」の芸者となり、笛と舞の名手として美しく利発の評判が高かったが、実家の木咲家と養家の難波家を養う為に莫大な借金もあった。
文久元年(1861年)頃に小五郎と知り合い、小五郎が惚れ込んだらしく、山科のある豪家と張り合った末に力づくで取り上げ、長州藩士伊藤俊輔(後の伊藤博文/1841〜1909年)を奔走させ金の都合をつけ身受けし、京都木屋町御池上るに控え屋敷を構え生活を始めたようである。
その後に、小五郎が置屋「瀧中」を買い取り、その家賃と小五郎からの毎月六両の送金で木咲家は生活し、難波恒次郎は小五郎の長州藩控え屋敷(木屋町別邸)の管理を任され長州藩の雑用係を主な生業にし、両家とも長州藩京都留守居役の桂小五郎が養っていた。
さぞ幾松も喜んだことであろう。
「立命館草創の地」を示す記念碑が立つ三本木の料亭「吉田屋」跡あたりを歩いてみた。尊皇攘夷派が密議を重ねていたその跡形は感じられないが、幕末当時三本木遊郭のあった花街の匂いが残っている気がした。その南30メートルの路地の奥に難波屋跡(瀧中/幾松の置屋)らしき場所を見つけた。顕彰の石碑も案内板も残されていなかった。