坂本龍馬 薩長同盟
京にある歴史と今を結ぶワンダーゲート
京都にはじめて薩摩藩邸が置かれたところは、錦小路東洞院南東角の「錦小路藩邸」で、蛤御門の変で焼失するまでの160年間置かれ、手狭なこともあり、文久二年(1862年)に、京都御所北の相国寺に沿うように、L字に烏丸通の東側5805坪の敷地を使い、「相国寺二本松藩邸」を設けた。
前者の現在は大丸百貨店で、後者は同社大学となっている。いずれの地にも藩邸跡の石碑が建てられ、案内版がある。
錦小路藩邸跡を東に行くと、駒札が見当たらないが、柳馬場通上る東側に西郷隆盛寓居(鍵直旅館)があったと聞く。
勤皇志士も鮮魚を眺め歩いていただろうなと思い浮かべながら、錦市場を歩くのも良い。イートインの商店もあるので、昼食をはさみ休憩もできる。
相国寺二本松藩邸の石碑は烏丸今出川を上る東側、同志社大学の西門横にある。見学されたなら、御苑内北東の近衛邸跡に立ち寄り御苑内を南へ散策し、蛤御門を見ておかれると良いだろう。京都御苑を散策し烏丸通へ出入りするたびに、蛤御門の梁(はり)にその戦禍を物語る弾痕が今も生々しく残っているのが目に入る。
記録によると、長州の攻撃は烏丸一条から七条までを火の海にするほどの消失をもたらしたという。
元来、尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が協力した「八月十八日の政変」で、大宰府への七卿落ちと並び京都を追放されていた。
京都追放による藩主父子の赦免などを求めて、「池田屋騒動」に端を発した長州会津の私戦として、元治元年(1864年)京へ軍事進攻した「蛤御門の変」では、圧倒的に優勢に攻め進んでいたところ、薩摩藩の乾門からの援軍に敗退し、御所への砲弾により朝敵とされ、西郷隆盛を参謀にした幕府軍の第一次長州征伐の進軍を受けることとなった。
長州藩は関門海峡を武力封鎖するが、運悪く攘夷の報復として、英・米・仏・蘭の欧米連合艦隊の攻撃を受け、砲台を占拠されて長州藩は敗戦した。
その敗戦で兵器の差に攘夷に理のないことを知った長州藩は、尊王倒幕への道を選択することとなる。
倒幕王政復古を目指す坂本龍馬と中岡慎太郎は、時を得たように、蛤御門の変の翌年春頃より、倒幕の目的を一にした薩長両藩の和解に向けて、主要人物に出会い説得に奔走する。
第一次長州征伐などの恨みを抱く薩摩藩との同盟を為す長州藩であるから、尊皇攘夷から尊皇倒幕へ急速に傾斜していたといえど、薩摩の意向を受けた坂本龍馬と長州藩の意向を受けた中岡慎太郎への期待と信用がいかほどのものであったかは想像できる。
長州藩に対しての薩摩藩の感情的な敵対もあったが、新国家建設の意思を同じくする点で同盟は理の帰結であったに違いない。
その由縁に薩摩藩の資金援助を受けていた龍馬の亀山社中を通じて、軍艦や全兵に西洋小銃を持たせるなどの近代兵器の斡旋が長州藩に行われていた点は見落とせない。その見返りに薩摩藩に兵糧米が輸出されるなど関係改善の機運から同盟への布石は打たれていったのである。
それらは、三十路を迎えた龍馬と慎太郎が具申し、和解できるように運んだ策である。誠に見事なコーディネートであった。
薩長同盟なしには、明治維新は為し得なかったであろうし、慶応2年1月24日(1866年)の寺田屋事件で龍馬が命を落としていれば、同年6月の幕長戦争(第二次長州征伐)の成り行きも変り、慶応3年10月14日の大政奉還はおろか、薩長同盟を元にした倒幕運動も進まなかったかもしれない。
薩長同盟は薩摩藩と長州藩の間で締結された六ヶ条からなる政治的、軍事的同盟である。
慶応2年1月21日(1866年3月7日)、上京区堀川一条東入る北側にあった薩摩藩家老の小松帯刀寓居参考地(近衛堀川屋敷跡)において、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀(後の清廉)と長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が倒幕を約したものである。
そこは一条戻り橋の東に当たり、五摂家筆頭の近衛家の堀川邸のあったところで、内部に広い「御花畑」があったという。同盟が調印されたのは二本松藩邸よりも、こちらの方ではないかと信じている。
その六ヶ条の最後には、
「冤罪も御免の上は、双方とも誠心を以て相合し、皇国の御為に砕身尽力仕り候事は申すに及ばず、いづれの道にしても、今日より双方皇国の御為め皇威相輝き、御回復に立ち至り候を目途に誠しを尽くして尽力して致すべくとの事なり」
と記された。
その前日の20日西郷隆盛は桂小五郎を伏見に出迎え、二本松薩摩藩邸にて会談、龍馬は桂の心境を訴え西郷を説得している。
翌22日第二次長州征討令が発布される。
21日、薩長同盟締結。
23日、寺田屋に投宿していた龍馬は幕吏の襲撃を受け逃走、薩摩藩の舟で救出され匿われる。
2月5 日、桂は龍馬を訪ね、署名された薩長同盟約定を取り出し、仲介立会いの龍馬に裏書署名を求めた。その求めに応じた龍馬は次のように裏書朱書している。
「表に御記入しなされ候六条は小・西両氏および老兄龍等も御同席にて談合せし所にて、毛も相違これなく候。従来といえども決して変わり候事はこれなきは神明の知る所に御座候」と。
同年6月7日、幕長戦争(第二次長州征伐)が開始される。龍馬は長州の軍艦「ユニオン号」を率いて参戦し、薩摩藩は幕府の命に従わず参戦を拒否。長州の勝利に終った。
新撰組や京都見廻組などの追手を逃れ、京の地を駆け巡った龍馬は、この世との別れの晩、醤油商近江屋の二階で、龍馬は中岡慎太郎と好物の軍鶏鍋(しゃもなべ)を食おうと、使い走りの峰吉に四条小橋の「鳥新」まで軍鶏を買いにやらせた。
峰吉が「鳥新」についた時にはあいにく売り切れたところで、新しく準備が出来るまで30分程待たされ、軍鶏を持って近江屋に戻った時は、惨劇が終わった後だった。
四条小橋の東南角にあった「鳥新」は、縄手四条上る大和橋北詰東側に明治の中ごろに移転されたとのこと。
寒さが身に応える今宵、鳥新で軍鶏鍋を突っついて龍馬を偲んでみまいか。
鳥新
http://homepage1.nifty.com/torisin/index1.htm