かも川談義 / やっと夏 祇園祭だ 夕涼み
京の母なる川の歴史と夕涼み
「吉符入り」のニュースを聞いた。7月1日と言えば祇園祭の幕開けである。
拙いのは百も承知で 句が詠みたくなった。
雨あがる 二階囃子も 何処からか
団扇 簾に 鰻はも
祇園祭(旧暦6月7日-7月14日)の風物詩として、室町時代の頃より都人が楽しみ、親しんでいたのが「四条川原涼み」である。
茶屋の軒先には提灯が灯され、路地、堤、河原には床机が持ち出され、酒食とともに歌をうたい、詩が吟じられたという。
鴨川の河原といえども、なにせ東西は現在の河原町通から縄手通(大和大路)までの広さである。
『都林泉名勝図会』、『花洛細見図』『都市名所図会』などを見てみると、その間には芝居小屋に見世物小屋までもあり、掛茶屋も立ち並び、大層賑やかなところなのである。
三条河原や四条河原には、鰻であろうかば焼き屋や水瓜売りの姿も見られるのだ。
1615年には四条通の南北に五座と縄手通に二座の七つの芝居小屋があり、歌舞伎、人形浄瑠璃、能などが演じられていた。師走の風物詩「吉例顔見世興行」で全国に名を馳せる「南座」は、歌舞伎発祥の地として今も残るただひとつの一座である。
そのほかに目に留まるものには、琵琶法師に太平記読み、覗きからくりに、麒麟や孔雀などの見世物小屋などもある。
男装した阿国(おくに)は「かぶき踊り(念仏踊歌舞伎風)」を北野神社と御所で演じ、広く都人の人気を博したのは1603年である。
その5年後四条河原では遊女歌舞伎が演じられ、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎などが生まれ、風紀が乱れるとのことから女歌舞伎が禁止され、現在に至っている。
梨園が男子だけの世界であるのは、ここにその起源があるとは。
元は六条河原で小屋掛け興行を行っていたが、歌舞伎の創始者「出雲阿国」も、秀吉に立ち退かされた「河原芸人」だったのである。
つまり、河原者から生まれ、伝統芸術として確立された芸能を、鴨川と河原の土はつぶさに見てきたことになる。
鴨川を渡る風は頬をやさしく撫で、幾多の様々な歴史の歩みをも飲み込み、そっと明日への鋭気を囁きかけてくれる風なのだ。
京都の「母なる川」と呼ぶに相応しい 鴨川の東西の浅瀬に床几が持ち込まれ、夕涼みの宴を催したのは京の旦那衆達である。遠来の客を持て成す粋として、お茶屋に設えさせたのだそうだ。時は秀吉の天下の頃であるらしい。
河原からその光景を羨ましげに眺めていた夕涼みの都人の顔が思い浮かんでくる。
また、誇らしげな顔で河原の賑わい見上げる旦那衆の姿も思い浮かぶというものだ。
その床几が木組みされた高床の川床(納涼床)となってからは、鴨川とその河原を見下ろしながらの夕涼みとなっている。
歌舞伎発祥の地 (歴史街道)
http://www.asahi.co.jp/rekishi/2005-11-21/01.htm
河原町の賑わい (京都故事)
http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/koji2.htm