かも川談義 / 河原の芸能
川床夕涼みの話ネタ
鴨川の二条以北は「禊、祓いの場」で、三条以南は「惨劇の場」であったが、何れも今は「憩いの場」として定着している。
最近では、目のやり場のないくらいに仲睦まじいカップルが等間隔に陣取り、その後ろを、真正面に視線を置いたままの散歩者が行き交う光景に出会う。
また、橋の下あたりには青いシートが目に留まる。この河原に250人余が居住し、その率は市内の全ホームレスの42%近くにも及ぶとのことである。
(2004年京都市自立支援センター調)。
古きよりこの河原には困窮者が集まるところであったようだ。
730年に光明皇后の発案で、三条河原は鴨川の西畔に、病人や孤児や貧窮者を救済し収容をする「悲田院」が建てられた。その関係施設である「疫病院址」の石碑は現在の御池鴨川の西詰北にひっそりと建っている。
また、飢饉などの時は、稲穀、粥、塩などが配給(賑給/しんごう)される場として利用され、近郊からも難民が集まってきたとの記録が、その後の時代ごとに残っている。江戸正徳4年(1714)諸国飢饉の折は、その難民の数4万人と記されている。
近代においても第二次大戦後の「40番地」と呼ばれた鴨川下流の河川敷には、引揚者などが住み着いたが、平安時代より税のかからなかった河川敷は困窮者の安らぎの場であったことに間違いはない。
河原に集まり住まう困窮者を捉え、平安末期から鎌倉初期には「河原者」とか「河原人」とか「河原法師」などと呼び習わされていた。その中でも職業などにより階層が作り出されていた。
芸に携わる者のことを「河原乞食」と呼んでいたのは江戸時代であるが、どうやらこのあたりに由来しているのだろう。現在のように多くの人が憧れるタレントや芸能人と持て囃された時代ではなかったのだ。
あらゆる芸能の源としての胎動期の頃である。南座で歌舞伎(1603〜)が演じられる以前の、鴨川河川敷に「河原桟敷(1349)」や見世物小屋が立ち並ぶ(1394〜)、更に以前の事である。
「河原乞食」とされた芸の職能者達の文化は、現在は「古典芸能」として敬われ、「人間国宝」の称号までも与えられる者を輩出しているのだ。
そもそも記録に残る興行としては、1374年四条河原にて、四条大橋を架けるため「勧進田楽」が催されたというものがある。「勧進田楽」とは寺や橋の修復のための資金手段として行われた「田楽公演」のことである。
その後も、資金調達手段として様々な芸能が勧進興行として行われ、普段にも河原で芸能をするものが多く集まり、猿楽、田楽、謡が披露されていたのだ。
とすると、この「勧進田楽」が鴨の河原の芸能の場としての起源であるといえる。
その中で、独自の能を確立したのが観阿弥・世阿弥であり、足利将軍家の保護、寵愛を受け、北山文化の一翌を担うまでに成っていった。
そして河原は芸能の場に留まらず、集う歓楽の広場としての機能を持ち、「見世物小屋」や「覗きからくり」なども庶民に憩いを与えるものとして登場してきた。
遊女歌舞伎や歌舞伎の創始者とされる「阿国」や「名護屋山三郎」が、この河原に登場するのは、これから230年余も経った江戸時代のことである。
悲田院
http://www31.ocn.ne.jp/~john/home/sen/hiden/hiden.htm
能の歴史(社団法人能楽協会)
http://www.nohgaku.or.jp/encyclopedia/whats/history.html
四条河原・桟敷倒壊事件 (太平記現代語訳 柳田俊一)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/taiheiki/e03/e27s02.html