かも川談義 / 河原町と七口
川床夕涼みの話ネタ
未だに分からないのが河原町通の開通である。「お土居(おどい)」が築造(1591)された後、「先斗町」造成(1668)がされるまでの間であることは察しがつくが、実に77年間もある。
「お土居築造」と同時に、それに沿って通りがつくられたことは間違いないであろう。しかし、河原町通と称していたという文献はないようだ。
河原町通として呼ばれてた記録では、江戸時代高瀬川運河が出来た以降(1629)に、葵橋西詰から二条通までを河原町通と呼び、二条より南は角倉通と呼ばれている。
つまり、それまでは確たる呼び名もない通りであったと思われる。
そして、「先斗町」が出来たときには、先斗町を通る筋を「新河原町通」と名づけたとある記録から、現在の河原町通が、この時河原町通と呼ばれていたことは明らかである。
どうやら、高瀬舟から運ばれた物資が洛中へ搬入される活況と「お土居」の取り壊しとに深く関係するという推論が成り立つのではないか。
河原町通は、京都屈指の通りであった朱雀大路(現千本通)に対して、名もない通りの時代が長かったというわけだ。
東方から洛中の東端にあたるその河原町通り(鴨川の河原)に行き着くには、いつの時代も鴨川が堀の役割を果たしていたわけであるから、どの橋を渡って洛中に入っていたのかは興味深いところである。
洛外東の端は東山山麓や比叡山が横たわり、北東にある主要道の「鯖街道」からは「出町」を経て、「大原口(現寺町今出川)」へと物資が運ばれていた。
その出町という名は都の市街地から出はずれたところ、外界との境界となる町という意味でつけられていた。そして、若狭、朽木からの物資の集積場として、京都最大級の歴史ある市場を形成していたという。
この辺りは橋が密集している。「出町橋(鯖街道終点地)」の北には下鴨神社に向かう「葵橋」、南には今出川通に架かる「賀茂大橋」があるが、この中で一番古い都への出入りは「出町橋」である。
葵橋西詰で河原町通の名はなくなるが、葵橋は江戸時代後半に架けられたもので、現在の「下鴨本通り」も「加茂街道」も、その後に出来た通りである。いづれも上賀茂神社、貴船、鞍馬へと続く「鞍馬街道」に繋がるが、それ以前は「鞍馬口」が洛北からの入り口で、賀茂川を渡るには出雲路橋が使われていたようだ。
葵橋西詰は河原町通の北端で、加茂川を渡り都に入る北東端が出町橋なら、南端もあるであろう。
平安京より「京の七口」と呼び、豊臣秀吉もこれに習い、お土居に七口(長坂口・大原口・荒神口・粟田口・伏見口・鳥羽口・丹波口)を設けたのだから、その名残は見当たるはずである。
河原町の南端は十条である。ここには勧進橋を渡り竹田街道に繋がる「竹田口(東洞院八条)」があるが、これも葵橋と同様に、江戸時代に設けられたものである。そして、ここは洛南からの入り口である。
そうすると、「京の七口」で鴨川を渡る街道の東南端は「伏見口(五条口)」となる。
伏見口は伏見街道から五条橋を渡り洛中に入るところである。弁慶と牛若丸の逸話に登場する有名な橋だ。その橋は現在の五条大橋(秀吉により移設)の北にあり、今の松原通に架かっていたものである。
残るは、琵琶湖は西近江路から志賀越(白川越・現通称山中越)を経て入る荒神口への荒神橋と東海道は粟田口(三条口)を経ての三条大橋である。
お土居築造の前は鴨川三条大橋の東詰に築造後は西詰に口が設けられていたという。蹴上の西に「粟田口」という地名があるが、ここに設けられていたことも充分考えられる。
とすれば、東山麓沿いの寺院前を通り、八坂神社(祇園社)前の参詣道である四条通を経て、四条大橋(祗園橋)を渡り、洛中に入っていた経路もあり得るのだ。
文化や物資の出入り口となっていた七口では、室町時代以降長らく関銭(通行税)が徴収されていたという。荒唐無稽かもしれないが、ここでひとつ提案である。
鴨川を渡る観光地方税として復活させられないものなのだろうか。
他国からは猛反対を受けるかもしれないが、納涼床でのかも川夜咄として議論するに値すると思うのだ。 (続)
「京の道」京都国道事務所|京を知る
http://www.kyoto.kkr.mlit.go.jp/study/his02_edo.html