かも川談義 / 河原界隈
川床夕涼みの話ネタ
「四条河原町」といえば、誰もが知る京都屈指の繁華街であろう。
その昔は、書いて字の如く「鴨川の河原」であった。というと、「へぇー」という声が聞こえてきそうな気がする。
平安京まで遡ると、現在の寺町通が、「東京極大路」(ひがしきょうごくおおじ)と呼ばれ、平安遷都における新しい都の東の端の通りとして、幅32mで南北に貫かれていた。「京極」とは、「都が極められた繁華なところ」ではなく、「都の一番端っこ」という意味であった。
つまり、寺町通より東は未開発の地で、鴨川とその河原があるだけの荒涼とした場所だったのだ。
その鴨川は有名な暴れ川で、度々の洪水が起き、挙句の果ては、水害から洛中に疫病をもたらすなど困り果てた川だった。平安時代に、五代もの間院政を引いていた権力者白河上皇(1053~1129)をして、「賀茂川の水、双六の賽、比叡の山法師。」と言わしめ、上皇は天下にあって思いのままにならない三つの事柄だと挙げている。
「東京極大路」が寺町通と呼ばれるようになったのは、秀吉が天下統一を成した桃山時代のはじめ頃である。
天正19年(1591)、長きに亘る戦乱に荒れ果てた都の整備として、外敵の来襲と鴨川の氾濫から市街地を守るため、都全域を囲む惣構(そうがまえ=城の外郭)を築造させた。土塁と堀は全長22.5キロにもおよび、東は鴨川、北は鷹ヶ峯、西は紙屋川、南は九条に至り、「お土居(おどい)」と呼び、その内側を「洛中」外側を「洛外」とした。
その折、洛中洛外の東の境にあたる荒れ果てた邸宅跡に、町中に点在していたお寺を集めるよう命じ、鴨川の西「お土居(幅約10m)」の内側とした。そして、お寺の東側玄関前を寺町通としたのだ。
つまり、現在の河原町通あたりに「お土居」あり、その東にある木屋町や先斗町などは川や河原であったことになる。
木屋町通は角倉了以による高瀬川運河工事(1611~1629)によって出来たところで、当初高瀬川を「新川」と、川沿いの通りを「高瀬川筋」と呼び、高瀬舟が運ぶ材木の倉庫が建ち並ぶことから、いつからか「木屋町通」と呼ばれ、正式な通り名となっている。
しかし、まだ「先斗町」の名は見当たらない。
さて、どのようにして現在の「先斗町」ができたのか。
江戸初期は寛文8年(1668年)、洪水を防ぐために、鴨川の東西に石垣の護岸工事が行われたのである。木屋町との間の中洲を埋立改修し、宅地にし、寛文10年(1670)に出来たのが「先斗町通」と「西石垣通(さいせきどおり)」である。
出来た当初には「先斗町」と「新河原町通」と呼ばれている。揚屋茶屋、旅籠などが置かれ、川端二条にあった遊郭「二条新地」(京都府下遊廓由緒)の出先となり、高瀬川船頭衆の遊興地として賑わったが、花街としては認められず、芸妓が居住すると取締があったようである。
先斗町の由来が、「御崎」と呼ばれていた河原の「先」と、名づけた当時に流行していた「うんすんかるた」にあったポルトガル語「ポント(ponta)」をもじったとされる説も頷けてくる。
「未開地を新開地」へと願った京都人の洒落心が伺える。
記憶に残る祖母の話によると、「あそこは鴨川の土手やったらしい、土手のことを堤(つつみ)とも言うやろ。芸妓はんが鼓(つづみ)を打たはったら、どないな音がおしやす」「ポンッと、ですやろ。あんじょう付けはったもんや」と。
さてさて、今日の床の夜咄もこのあたりにして、暖簾を下ろしますか。 (続)
御土居堀(御土居)とは (京都の歴史と文化財保護問題)
http://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/odoi/index.html
近世の水辺その1高瀬川舟運が支えたまちの姿(水のインフラストラクチャー)
http://www.cp-n.com/intercity/water/tanaka2.htm