京の七夕祭
働かず 年に一度の 天の川
五節句の一つである「七夕(しちせき/たなばた)」がやってくる。
古来、「棚機(たなばた)」とも記されていたようだ。
それより一般的には、「しちせき」が「たなばた」と発音されるようになったという。
「棚織津女(たなばたつめ)の伝説」は、村の災厄を除くため水辺で神の衣を織り、神の一夜妻となるため、機屋で神の降臨を待つ巫女にまつわる物語で、日本に伝わる「七夕」の起源由来である。
幼少の頃聞かされた「七夕」の話は、「織姫(織姫星)と彦星(牽牛星)の伝説」であった。
中国春秋戦国時代の「詩経」に出てくる伝説で、奈良時代に伝来したという。
天帝の娘織姫は機織の上手な娘で、彦星もまた働き者で、天帝はこの二人の結婚を認めた。
夫婦となるや、織姫は機を織らなくなり、彦星も牛を追わず、二人とも働かなくなった。
天帝は怒り、天の川を隔てて二人を引き離すことにした。
しかし、年に1度だけは逢瀬の機会を許すことにされた。この時が七夕の日である。
天の川の水かさが増し、到底渡ることのできない頃であるが、どこからかやってきた無数のカササギ(コウガイガラス)が、天の川に身を挺して橋をかけてくれるという話だ。
どうやらこの二つの伝説があいまって、今日の「七夕祭り」として継承されている。
七夕は24節気の中の処暑(しょしょ)よりも前で、処暑に最も近い新月の時刻を含む日(日本時間)を基準に数えて7日目を「伝統的七夕」の日と言う。
24節気は、春分を基点とした太陽の位置(黄経)によって決められる。
そして、処暑(しょしょ)とは太陽黄経が150度のときで、暑さが峠を越えて後退し始める頃とある。つまり、その日は天文の動きによって年毎に違う、他の季節行事と同じである。
このように上弦の月の夜であった「七夕」は、新暦になってからは、暦日7月7日に「笹飾り」をしてお祭りをするようになった。
平安時代の公家は「星祭り」としての七夕を楽しみ、技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」という宮中行事として執り行っていた。一方、民間習俗としての七夕は盆行事の一つとし、精霊の依代(よりしろ=依りつく聖なる物)として笹を立て供えて、収穫祭としていた。
緑・紅・黄・白・黒の五色の短冊に願い事を書き、笹竹に飾り、技芸の上達を祈る祭りとして広く盛んになったのは江戸時代になってからのようだ。
京都の各神社での七夕祭を挙げると、北野神社、貴船神社、白峯神宮、織姫神社などで神事として執り行われている。
また、京都らしくも雅やかな七夕の行事を受け継いでいるのが、冷泉家の「七夕の歌会 乞巧奠(きこうでん)」である。
平安時代さながらに供え物をして、織姫・彦星をまつり、技芸の上達を祈願するとともに、管弦の奏楽、和歌の朗詠が行われ、天の川に見立てた白い布をはさんで「七夕の歌」を贈りあう、という古式ゆかしい行事が執り行われている。
全国各地に伝わる華やかな七夕祭とは様相を異にする京の七夕は、町衆の祇園祭の影で粛々と行われているのだ。
北野天満宮 御手洗祭/七夕祭
http://kitanotenmangu.or.jp/annual_events.php
貴船神社 七夕祭/貴船の水まつり
http://kifunejinja.jp/event.html
白峯神宮 精大明神祭 / 七夕祭
http://shiraminejingu.or.jp/event/tanabata/
織姫神社
http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/03/019/