京鍋料理 / 芳香炉
鍋奉行 居所なしの鍋三昧な話
鍋といえば、まず土鍋を思い浮かべるものだ。
縄文時代、火の中に土製の鍋を置き、狩で得た食材を煮炊きしていたことに始まっている。
その後、中国大陸より石鍋や鉄鍋が伝来したわけだが、日本で最初の漢和辞典『和名抄(931年)』では、土製のものを「堝(なへ)」、金属製のものを「鍋(かななへ・かなへ)」と区別され記されていると聞く。
江戸時代までは竈(かまど)や囲炉裏に鍋(かなへ)や堝(なへ)をかけ、煮焼きされたものは小椀に取り分ける「銘々膳様式」が定着していた。
鍋(かなへ)や堝(なへ)を使い煮炊くものは、「鍋物」とは呼ばれず、煮炊物、煮汁物とされた。
つまり、何れも大鍋の調理具だった事が分かる。
南北朝時代の「太平記」には、「狸汁」が登場しているが、他にも汁仕立のメニューは豊富にあったのだろう。
また、江戸寛永20年(1643年)に刊行された「料理物語」には、ふぐ汁や兎汁も記され、大根など根菜や野菜を入れた味噌仕立の煮汁であったと記されている。
江戸中期には、七輪(しちりん/コンロ)に火を起こし、「小鍋」をかけ魚介類を煮炊きしながら食することが流行している。これが「小鍋仕立て」と呼ばれた。
というのは竈(かまど)や囲炉裏のない長屋が増え、「銘々膳」より「小鍋仕立て」が重宝する食し方となってきたからである。
幕末期には「薬喰い」と称して、魚介類に留まることなく、公然と四足の獣も調理されるようになった。「薬喰い」とは、体に滋養を供給し、病気を治すための食べ物を喰らうことである。
「ぼたん鍋」や「桜鍋」の呼称は、公然と食される前の隠語だという説もある。
「土鍋」を含み「鍋」の文字が使われるようになったのは鉄器・銅器の普及があったからだ。
しかし、土鍋は、寄せ鍋・ふぐ鍋・アンコウ鍋などの様に、火の当たりが柔らかで旨味をじっくり引き出すものに使われ、今もこれが主流である。
しゃぶしゃぶ・おでん・水炊き・湯豆腐などは熱伝導が高く冷めにくい銅鍋で、すき焼き・ジンギスカン鍋などは焦げ付きにくい鉄鍋が良いというところだろうか。
話が湯豆腐に流れがちな京の鍋物であるが、珍しい鍋物をいただける処がある。
蕎麦の老舗「晦庵 河道屋」が提供している「芳香炉」である。
蕎麦にうどんに湯葉、真蒸(しんじょう)に飛龍頭 (ひろうす)に京野菜を、鶏肉と煮ながらいただくのだ。
中国鍋の火鍋子(ホウコウズ)に見るような、真ん中が煙突になっている鍋である。
「満州渡来の鍋ありき」と、14代晦庵の亭主が考案した鍋物とある。
しゃぶしゃぶ屋さんで、このような仕様の鍋を用いているところが多いので、ご存じであろう。
この煙突の役割は、だし汁と接する表面積を大きくし、だし汁の対流が良く、火を中心に集めることで、温度を一定にするのだ。
また火が中に向くため、鍋に箸を伸ばす時に熱くない。
この煙突部分は、もともと炭火が入れられていたのだ。
蕎麦屋の仕立てる「芳香炉」というスキ鍋であるが、丹波産の山芋がつなぎに加えられた蕎麦は、その喉ごしが実にたまらない。一緒に入れるうどんの比ではない。
この鍋物は京都でただひとつのものである。
河道屋/芳香炉
http://www.kawamichiya.co.jp/
四川風火鍋子(徳永睦子のらくらくクッキング)
http://www.miyajima-soy.co.jp/cook/cooking/basic/31/61.htm