知られざる祇園祭 / 神となる稚児
結納を行い養子縁組まで交わされる稚児
「前祭(さきのまつり)」と言われる17日の山鉾巡行や16日の宵山は、観光客や若いカップルで毎年賑わい、行き交う人が着物や浴衣姿に自然と親しんでいるようで嬉しい限りだ。
祇園祭は7月1日の「吉符入り」から31日の「疫神社夏越祓」までの一ヶ月の間に、屏風まつりに伝統芸能の奉納、神輿巡行や花傘巡行などと盛りだくさんの行事や神事が行われる夏祭りである。山鉾巡行はその内のひとつである。
日本3大祭であるその祇園祭を、古くは、「祇園御霊会(ごりょうえ)」と呼んでいた。
祇園御霊会(ごりょうえ)は京の町から日本全国に蔓延した疫病退散を願って 始まった神事である。
そもそも、869年(貞観11年)に京に疫病が蔓延したのは祇園牛頭天王の祟(たた)りであると考えられた。そこで、平安京の広大な庭園であった神泉苑(二条城南側)に、諸国の数である66本の鉾を立て、祇園社から神輿を送り出し、疫病退 散の祈願を行ったのが起源である。
その後、疫病が流行る度に御霊会は行われていたが、治まることがなく、970年旧暦6月14日より毎年行われるようになったという。
今年も、7月1日「吉符入り(きっぷいり)」に、稚児の「お千度」が八坂神社で行われ、翌2日には山鉾巡行の「くじ取り式」が行われた。5日は長刀鉾町で「稚児舞」が披露され、町の人たちとも正式に顔合わせが行われた。
「吉符入り(きっぷいり)」とは、一ヶ月の期間に無事祭りが進行するよう氏 神様に祈願し、あるいは世話役宅の床の間に「牛頭天王」の掛け軸を掛け祈願 する行事である。
「お千度」とは、祇園祭の安全と無事を祈る行事で、朱傘をかざされた長刀鉾 の稚児は袴の稚児衣装に身を包み、八坂神社の正門から入って本殿を3周回る の習わしである。
前年より京の町の年頃の幼子が募集選抜され始まるわけだか、立候補してなれ るものではない。保存会、後援会の役員により選出決定されるもので、最終選 考基準は公開されていない。
その基準を推察するに、
土地の人間と呼ばれるのに「 京都十代,東京三代,大阪一代」と言われることや、「男の子が生まれたら祇園祭の稚児に、女の子なら葵祭の斎王代に」と由緒ある家柄の親達が憧れることや、稚児と鉾町との養子縁組の儀を固める迄の大役であることなど、それ相応の難関であり、ともにそれ相当な名誉を得るわけである。候補者そのものが始めから限定されることは容易に想像できる。
祇園祭にある稚児は、辞書にある「幼い子」、「祭礼や寺院の法楽などの行列 に、美しく装って練り歩く児童」、更には「寺院や、公家(くげ)・武家で召し 使われた少年」の意では、どうもないようだ。
長刀鉾町では6月下旬になると、幼子と父親と鉾町は養子縁組の結納の儀を執 り行う。堅めの杯が済むと幼子は長刀鉾町への養子となる。「牛頭天王」の掛け軸がかけられた養子元の祭壇は八坂神社の神官が仕切っている。その後13日に「社参」し長刀鉾町の神に任免される。
綾傘鉾では7月7日に結納の儀と社参の儀を八坂神社にて行い、清め祓いの後、宮司から「宣杖書」が授与される。
そこには「神のお使いとして祇園祭りの稚児に任ずる」と記されていると聞く。
つまり、社参の日から山鉾巡行の日まで、稚児は各町の神様なのである。
その神様の期間は稚児は精進潔斎の生活で、女性の差し出す食事も禁じられており、地面に足をつけてはならないという習わしも守られている。
勿論、きゅうりは食べてはいけない。八坂神社の紋なのですから。
こうして「二階囃子」の音とともに、今も古式にのっとって事が運ばれている。
長刀鉾町の稚児は、巡行の朝、見事に注連縄を切り落とす。
そして長刀鉾真正面にて、孔雀の羽をあしらった冠、振袖に裃(かみしも)姿で、鼓を打つ優雅な身振りの太平の舞を舞っている。
とくとご覧あれ。