京都文化麺類学-考古学的アプローチ
明日のラーメンを夢想するための
京の麺の考古学。
シメにはラーメンというのはまさに言い得て妙であるが、麺でシメるという粋な行為は、鍋にせよ、コース料理にせよ、茶会にせよ…街場でのゴキゲンを何倍にもしてくれる。そんな遊びの楽しみが連綿と京の粋人のDNAには受け継がれているのではないだろうか?
なんて考えをもとに、京都=ラーメン王国の“種の起源”を探る旅を本当のシメ(笑)にしようと思う。
ということで、僕は現在の京都のラーメン王国の原点は、いわゆるソバ切りであり、そかつ温かいダシで食べる、丼なソバだと考えている。今やソバはソバで、更科や生粉打ちといわれるちょっとストイックなソバ文化へと発展しているが、温かいソバ、はたまたラーメンのように具がトッピングされたソバこそ現代の京都のラーメンの起源であると考えている。
古いのれんという事であれば、室町期の1465年に創業の「本家尾張屋」。江戸時代に御用蕎麦司となったという話の前に、本願寺から大きな重箱を持って(ソバ切りを)買いに来られた、とこれまた店のいわれにはある。ということは、江戸期よりも前(もちろん本願寺は一つであった)に「本家尾張屋」は蕎麦屋としてその名を京じゅうに知らしめていた。
そして、「本家尾張屋」よりも僕が注目するのは「河道屋」である。「晦日庵 河道屋」でソバを食べていていつも感心するのは、京都の蕎麦屋の姿として、温かいおソバがしっかりと楽しめるのはいわずもがなであるが、そこにはキツネ(大阪で言えばタヌキ)が無いということ。それは、ウルメを使わずにサバとメジカの節でとったコクのあるツユのため。あくまで鴨(南蛮)との相性を一番に考えたこだわりで、「甘いキツネ」とは合わないということなのである。これって、まさにラーメンのチャーシューとスープの関係ではないのか! ということで、僕は「河道屋」の鴨南蛮と、にしんソバが、京都ラーメンの祖先だと考えている。
にしんソバ…となれば「松葉」だ。今は無き北座(歌舞伎好きの人は知っていようが)で文久元年(1860年)に芝居茶屋として開業。明治15年(1882年)に、2代目の松野与三吉がにしんとソバを合わせ世に送り出したといわれている。名物をつくること、それが文化になっていくなんて誰も仕掛けて考えていない、そんな時代のことだ。にしんソバは茶屋の蕎麦、しかも歌舞伎小屋の名物料理という文脈で食べるものだ。それはまさに「遊びに行った! 腹減った! ラーメンでも食べようか」という感覚と同じではないだろうか。そんなにしんソバは、みがきニシンを丁寧にしょう油、酒、みりん、山椒で炊かないといけない(柔らかく、かつ滋味をきちんと出す技術が必要)し、かつその濃い味の棒ニシンに合うツユと麺でなければならない。それは、旨いラーメン作りと何一つ変わらないことじゃないか? と思うのは僕だけでないはずだ。そもそもニシンは江戸時代の頃に、松前船や北前船などの交易により、京都に入ってきたものだ。そんなニシンや昆布、貝柱など、かちんこちんに干した堅い物が船でやってくるおかげで京料理は最高のダシを作り上げていったのだが、それらは今やラーメンのスープ作りへとこれまた発展していると言えないだろうか。
伝統を守ることと、新しいことを採り入れていくこと、その2つをいかに京都らしく成立させるか…そんな明治後期から京の町に新しい大衆文化としてブレイクするものがある、それは食堂である。茶屋や蕎麦屋ではなく、食堂がソバやうどんを出すとともに、中華ソバというメニューが生まれる。あなたも、きっと経験や記憶していることがあると思うが、親と一緒に食堂へ行って、そこで悩むのである、うどんにするか中華ソバ(ラーメン)にするか…。メニューにはなんでも揃っている。定食もカレーももちろんあるのだが、そこには不思議と中華ソバという何ものにも代え難い、そう中華ソバとしか言いようのないメニューがあり、なぜか不思議とすいた小腹にちょうどいいような気がするのである。この「小腹にちょうどいいような気」は、きっと飲んだ後や夜遊びの最後にラーメンを食べてしまう脳の中の古い記憶の源泉なのではないだろうか(笑)。
そんな中華ソバがある食堂のブレイク・ポイントとなるのが、寺町六角に餅屋から食堂へとステップアップし、一世を風靡する「力餅食堂」である。残念ながら寺町六角にはその看板が現存するだけで、店はすでに営業していない。当時の面影を今に感じるならば、烏丸通鞍馬口西入ルの力餅食堂ということになるだろうか。
ここで、ピンときたあなたは偉い。京都においては、横浜や神戸、はたまた長崎といった中華文化の黒船が入ってくるのではなく、鴨南蛮やにしんソバを経由して、うどん・ソバ・中華ソバが並列で、外食文化として根付いていく事になるのだ。ちょっと小腹が…とも書いたが、それは外食の贅沢でもある。ある意味、中華ソバはちょっと出掛けたときに食べる、ささやかな贅沢であったのだ。明治〜大正〜昭和初期という時代背景を想像できるだけして欲しい。このころ、家で、中華ソバは気軽に作ることは出来なかったのだ。焼き豚もシナチクも、中華ダシの素も売っている店なんか無かったのだ。
そんな、戦前の昭和13年、西暦1938年に新福菜館が屋台でスタートする。新福のメニュー名、あなたはもちろん素で言えるであろう。そう「中華そば」なのである。おっと、こじつけ! といわれそうであるが、ミッシングリングが繋がったのではないだろうか? そして、1939年には「中華のサカイ」がオープンする。中華料理店ではあるが、ココの店のメニューは知っておられる方は納得だと思うが、壁に中国料理としてのアラカルトメニューが書いてあるが、カウンターの古くからの(と思われる)立てかけメニューはなんと、中華そばに始まって、オムライス、チキンライスなどもある。ある意味、食堂と中華食堂とラーメン店のハイブリッドともいえるが、そうならざるをえない京都の街場の店事情がメニューに刻まれている、そんな気がする。
戦後、新福菜館が店舗化するのと時を同じくして夜鳴きの屋台として開店するのが、「ますたに」である。戦後すぐ、昭和22年、西暦1947年のことである。この「ますたに」であるが、ここもまた、現在もメニュー名は中華そばである。そして、1951年には四条大宮の「京一」が開店する(甘味処からのスタートだった)。この店には、今も懐かしの中華ソバそのものが残されているといっていいだろう(カマボコが乗っているはどうか? と思うが… 江戸では、海苔と合わせて、カマボコが乗っているのは結構スタンダードだしな〜)。
そしてやはり、最後は「第一旭」の登場でもって話を落ち着かせる事になる。昭和の中の昭和ともいえる30年代に入り(31年)、第一旭は、旭食堂という食堂をラーメン専門店に業態替えというかヴァージョンアップさせる。そう、食堂として京のハイカラさんにアプローチし、なかでも家で食べられない「中華そば」を売りにしていた、そんな店がラーメン専門店になる。しかも、メニューが中華ソバではなく、ラーメンという名で展開される(京都でですが…)1歩が踏み出されたのだ。
ソバ切りという技術が中国からやって来、京料理の出しが生まれ、鴨など肉食(=南蛮)やにしんのトッピングが普及し、ハイカラな食堂とともに中華そばが定着し、そのどれもが歴史的に結び付いて昭和30年以降、京都は全国にも類い稀なラーメン王国となった。
そんな京都のラーメンは、街場のコミュニケーションツールであり、ラーメン店はコミュニティである。
京のラーメン好きは、きっとこれからもどこかできっと誰かを繋げる、ような気がする。
文 : 本誌 袖岡保之