恋のスピリチュアルスポット☆須賀神社の節分
懸想文!?
「ボーイハント・ガールハント」「ナンパ」「ひっかける」「口説く」などという記号は死滅し、「メル友」「合コン」「であい系サイト」という造語が生まれ、すでに不純なものと化し事件を産み出している事例もある。いくら不器用で晩生であっても、年頃になれば色づくものだとばかり思っていたが、「告白」「ラブレター」に悩む青春は、「SNS」社会にはないのだろうか。
縁結びの神社は数あれど、古くよりラブレターの代筆をしてくれていた人がいる神社となると須賀神社しかないのである。
ラブレターとは恋文のことであるが、平安時代にはこれを懸想文(けそうぶみ)と呼んでいた。
江戸時代には、徳川幕府の朝廷・公家の統制により、禁裏の勝手向きは苦しいものがあった。禁裏御料(だいりごりょう)でさえ十万石しか与えられていなかったとの記録が残っている。
そうすると、下級の公家の生活など推して知るべしである。生活に窮した公家たちの内職の一つとして、恋文の代筆を生業とするものが現れるのである。
古文や和歌などの素養がちりばめられた「懸想文」は、年頃の娘達の支持を得たようである。思いの丈を美辞麗句に置きかえた文を求める娘達に、瞬く間に広まったのである。
しかし、公卿の身であるゆえ、素性が気づかれぬようにと白布で顔を覆ったいでたちで待たねばならなかった。以来、梅の花が咲く頃になると、京の都に現れるようになったと聞く。
これを「懸想文売り」と呼んだ。
この「懸想文」を人知れず鏡台や箪笥の中に入れておけば、顔かたちが美しくなり、着物の数が増え、良縁に恵まれるという噂もたちまちに広まり、縁談や商売繁盛など人々の欲望を叶える縁結びの符札として信仰されるようになったのである。
その名残を継承している須賀神社では、明治維新以降懸想文というお守りを節分の日だけに授与している。この日に詣でると、烏帽子に水干の装束を着け白覆面をし、懸想文を結んだ梅の枝を担ぎ、往時の様子を窺わせるかのように、須賀神社の境内に立っている姿を見ることができる。
このお守りを授かり、意中の人に告白を是非試みて貰いたい。
結果を恐れず、駄目もとを心して一歩踏み出すことである。
例え結果に傷ついても、それは新たな一歩へのスタートなのである。
そのように覚悟をすれば良い。そうすれば自ずと道が開け、望むことは叶うものである。物事は案ずるより産むが易しというではないか。
懸想文売りはそんなパワーを授けてくれるのである。
懸想文を手に入れるには、東山丸太町の交差点を北へ始めての信号を右東へ、春日北通を東に黒谷さんに向かっていく。左手に聖護院門跡が見えてくると斜め向かいあたりにある。真向かいは聖護院門跡筆頭塔頭の積善院準提堂である。
道路沿いの鳥居の扁額には「須賀神社・交通神社」と併記され、祭神は、健速佐之男神(ハヤスサノオノミコト)と櫛稲田比賣神(クシナダヒメノミコト)で祇園信仰の神社である。
須賀神社をはじめ、八坂神社・八雲神社は「天王社」で、かつて岡崎神社が「東天王社」と呼ばれていたのに対して、須賀神社は「西天王社」と呼ばれていた。
貞観11年(892年)創建当初の須賀神社の鎮座地は平安神宮のある「岡崎西天王町」にあり、康治元年(1142年)美福門院の建てた歓喜光院の鎮守社となり、後醍醐天皇の元弘2年(1332年)より約600年間を吉田神楽岡に遷座し、大正13年、聖護院一帯の産土神として御旅所のあった氏子町の現在地に遷座された歴史を持つ。
節分に詣でると、境内に用意された茶店で一息入れると良い。
赤い毛氈が掛けられた縁台の上には、火鉢が置かれている。氏子の奉仕の方々の接待で、「須賀多餅」と「豆茶」を頂くことができる。
招福豆まきの豆が入った「豆茶」だそうである。塩味が効いている。
あっさりとした柚子味の「須賀多餅」とで丁度いい塩梅である。
寒風の吹く中、焚き火と豆茶で温まったところで境内を出ると、道路端に八つ橋屋さんの出されている露店がある。
そこに「懸想餅」という餅が売られているので、バレンタインチョコに替えてプレゼントとして買い求め、告白する人に届けてみてはどうか。
「懸想文」は枕元に置いて、毎夜念じて眠ると良い