葵祭2019☆前儀 流鏑馬神事
新緑の糺の森、木々に蹄の音、かぶらやが風切る音、「カーン」と杉板が割れ飛ぶ音が響く。
欽明天皇の御世に相次ぐ風雨で凶作が続き、賀茂の神々のたたりであるとされた。
これを鎮め、五穀豊穣を祈願すべく567年に勅命により祭礼が執り行われる。
馬に鈴が掛けられ、人は猪頭(ししがしら)を被り、駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨は治まり豊作となった。と言い伝えられている。
これが「賀茂祭(葵祭)」の始まりで、5月3日に下鴨神社で行われる「流鏑馬(やぶさめ)神事」である。
5月3日 午後1時 流鏑馬神事
流鏑馬神事では、500mの馬場に3ヶ所 的(1尺5寸:45cm)が設けられます。
馬から的までの距離は8尺:1m80cmあり、その的を射抜く神事です。
5頭の馬が4回走ります。(※馬の調子により変更されます。)
葵祭は弓矢を射るに始まるとは・・・
黄金週間中にも「葵祭」の関連行事は始まっている。
下鴨神社で執り行われる3日の「流鏑馬神事(やぶさめしんじ)」、4日の「斎王代女人列御禊神事」、5日の「歩射神事(ぶしゃしんじ)」、同5日の上賀茂神社「賀茂競馬(かもくらべうま)」がそれである。
いずれも「葵祭」の安全を祈願し清められる神事である。
流鏑馬神事での的を射て、その射抜かれた杉板の的が割れ飛ぶ「カーン」という音。
糺の森の馬場を駆け抜ける蹄の音。
新緑の木々に響き、初夏に相応しいものだ。
流鏑馬とは馬を走らせながら鏑矢(かぶらや)を射ることであるが、元々は「騎射(きしゃ)」と呼ばれていた。
武家の儀式としては、狩装束での流鏑馬が盛んに行なわれたことが『吾妻鏡』には記され、武家としての流鏑馬のルーツは『平治物語』に記される「平清盛の伏見稲荷神社の流鏑馬」である。
束帯姿での流鏑馬の原型は、雄略天皇即位の年(四五七)に「騁射(うまゆみ)」をおこなったとの記録が『日本書紀』に残るようだ。
そして、朝廷警護のための公家の騎射の催しは平安時代には益々盛んになった。
『続日本紀』に「文武天皇二年(六九八)賀茂祭(葵祭)の日に民衆を集めて騎射を禁ず」と記され、葵祭の日の騎射に大勢の見物人が集まるため三度も禁止令が出たとある。
360メートルの馬場には100メートル間隔に三箇所、50センチ角の的が用意さている。
赤地に白抜き丸柄の「合図扇」で、馬は疾走しだす。
馬上の射手は「陰陽(イン・ヨー)」との掛け声で、的へ矢を放つこと三度である。
平安時代中期には、「祭り」といえば「葵祭」をさすほど隆盛を誇った葵祭(枕草子)の起源は、古墳時代後期の欽明天皇(540 〜571年)のときである。
凶作に見舞われ、飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったものだという。
3日下鴨神社で流鏑馬の神事が執り行われる。
その流鏑馬の矢が放たれる一瞬を捉えたのが次の写真である。疾走する馬の速さと矢のスピードに注目して、目を凝らして繰り返し見させられる。
真ん中の写真が矢を射た瞬間である。矢が的に到達の前
矢が的に当たる寸前
矢が的を射て、的が割れ飛ぶところ
的を割った矢が落ちだすところ
写真をクリックして拡大した写真で、矢の描く線、的にあたり板が割れ飛ぶ様子を・・・。
一瞬にして、的も矢も、地に落ちた。
写真は知故のFB友達「堀内 邦保」さんの捉えた一瞬である。
葵祭 清めのための前儀 (京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/aoi/zengi.html
流鏑馬神事 (下鴨神社)
http://www.shimogamo-jinja.or.jp/saijiki.html
流鏑馬 (小笠原流)
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/lessons/kisha/yabusame/yabusame.html
上賀茂神社
http://www.kamigamojinja.jp/