世界 WORLD1

ギリシャ神話の女神の名を冠した
ふたつのディスコがあった場所

 かつて、同コーナーで「KYOTO CLUB METRO」をご紹介した際、オープン年に、ジャズを元にしたニューウェイブな音を刻むベーシストが「ライヴをやりたい」と言ってきた話を書いた。「サックス・ラッパー・ムチャクチャ叩けるドラマーを従えた、すごいニュアンスのある、アーティな音を出していたビートメーカー」。それが当時の「MONDO GROSSO」の大沢伸一だった。後に東京へ渡るのだが、本人が「音楽的には京都出身」と語る、そのルーツは「METRO」にあったと言っても良いだろう。「METRO」の住人であった氏が、現在は同店でレギュラーイベントを行っている。
 去る4月に発刊した、本誌の’06年5月号。その大沢伸一にインタビューしたとき、氏はそっと笑いながらこう言った。「アイツがいるからね」。アイツというのが、同店のオーガナイザーである中本幸一氏である。ブッキングマネージャーでもある中本氏が同店にやってきたのは、ちょうど5年ほど前。その時に、「世界WORLD」という名前がこの店に初めて与えられた。名付け親も同氏だ。
 遡ること10余年、この店には別の名前があった。ここは「レイア」「ガイア」という、ギリシャ神話の女神の名を冠したディスコであった。京都に限らず、’80年代までは、街の方向性が決まるのは、このディスコという業態の中だったのだろうと思う。日が暮れてから、いくつもの歴史が刻まれてきた。ロック喫茶がライヴハウスに取って代わり、ライヴハウスからディスコへと、その場は移ろう。それはとりもなおさず、同コーナーが追いかけているライヴハウスの、ある意味、斜陽を言うようなものかもしれないが、どの夜もミュージックシーンであったことに違いはないだろう。
 ともあれ、DJ文化の先駆けがディスコという世界だったとして、同店はその黎明期に、同じ世界にいたことになる。

女神の名はカタコンベに変わり
マンパワーを得て、今に至る

 時は移って’95年5月。女神の名前は消え、そこにはカタコンベ(地下教会)をモティーフにした店が現れた。1920年代、シカゴが火薬庫だと言われた禁酒法時代、人々は教会の地下に集まり酒を酌み交わしたという。そんなアンダーグラウンドなイメージを色濃く打ち出す店になった。ウィスキーをプロスペックで飲ませるその店、「ストラスアイラ」の洞窟的な店内は、コンセプチュアルな店の作り方として、今も記憶に新しい。以来、いくつかの名前を戴いた後、’01年に「世界WORLD」の名を得た。だがそのルックスは、常に洞窟的なままだった。そしてそれは、今も変わらない。
 同店は「IMAGIUM」というビルの1階と地下1階部分にあり、京阪神で飲食業を手広く手がける「あじびる」の系列としてある。洞窟のルックスが変わらないのも、時代時代で業態が変わるのも、ある程度のサイズの組織が経営するものと思えば得心がいく。折しもバブル以降、飲食業の景気も下降線をたどり、ジャンプアップよりも現状維持が尊ばれた。
 その店が、マンパワーによって劇的に変容を遂げ、幅広くミュージックシーンを支える場所になったのである。そこにはどんな経緯と理由があったのか。

消化されつくし、細分化を始めた時代
モッズからミュージックシーンへ

 5年前、何度目かの業態変更を行うに当たって先述の中本氏に白羽の矢が立った理由は、ちょっとした知り合いからの声がけであり、どこにでもあるような、人と人とのつながりであった。
 学生時代のほとんどを体育会系で通した中本氏は、後にバイク(piaggio vespa)に興味を示し、カスタムにも手を出すようになり、スクーター店でバイトを始めた。スティングが出演していた映画「さらば青春の光」に代表されるように、ベスパといえばモッズ。スクーター好きがいつしか、モッズカルチャーに傾倒していくようになる。「バンドを組んでいた訳でもないし、ディスコ世代ともちょっと違うし、何しろモッズパーティしか知らなかった(笑)」という同氏のこと、当時のミュージックシーンがどうだったかはあまり憶えていない。ただ、「’98年とか’99年頃って、混沌としてきた記憶はある。色んなものが消化され尽くして、細分化が始まった頃だった」という理解をしていた。それはそれで、的を射ているような気もする。’90年代の後半には、既に爆発的なヒットや、その年を一言で「○○の年だった」と言えるものはなかったろう。
 そんな中本氏が同店に来る前にしていた仕事は、当時できたばかりの大阪ミナミの「Club Joule」であった。バイトに毛が生えたような扱いではあったが、大阪では知られたクラブでブッキングをこなした。巡ってきたチャンスに舞い上がりつつも、必至に取り組み這い上がった。「(モッズが集まる店ではないし)業界に精通したブッキングセンスというものは全くないド素人なわけです。何が喜ばれて、何が受けるのか?という絶対的お題をこなすのみでしたね。ただ割り切って取り組めたのもモッズだったからなんですよね、結果的に。自分の主観が世間とはかけ離れたものだったので。今から思えば恥ずかしい限りですけど、『 REMIX(クラブミュージックマガジン)』片手にブッキング交渉とか(笑)。1年ほど経って、無責任に『ああだ!こうだ!』という取り巻きが増えてきて、結果オーナーサイドとの衝突で店を後にしました。『若かった』の一言なんですけど、無我夢中で突き進んだ1年だっただけに辛かったですね。まさに挫折。何もする気が起こらず、ボ~っと過ごす日々が1カ月、2カ月…、『ヤバい金が無い!』と(笑)。働かなイカンとはいえ何する? という(笑)」。
 先述の知り合いから声をかけられたのは、まさにそんなときだった。「『京都やねんけど、おもしろそうな話やから、会うだけ会ってみる? なんか一等地やねんけど、そこのレストランあかんみたいやねん。うまくその物件でビジネスできる奴を探してるみたいやわ』と」。渡りに船だった。

企画書は「意気込み」から「常勝」へ
気づけば「そんな位置」に立っていた

 「IMAGIUM」どころか、「あじびる」すら知らない中本氏であったが、紹介を受け、話聞いて、とりあえず物件を見に行った。結局、「軽く企画書を出してみろ」と言う言葉に従ったのは、本人曰く「どこの馬の骨か解らない24歳」だった同氏のどこかに、野望に似た、若い暴走があったのかもしれない。引き合わせの場で同社の会長と食事を共にした際、同席していたディスコを知る世代である令息に、何らかのエンパシーを感じたからかもしれない。
 文頭の「レイア」「ガイア」という、ブームの終わり頃にできたディスコの寿命は、決して長いとは言えなかった。後発であり、結局マハラジャほどには保たなかった。少なくとも、その当時においては反省を必要とするものだったので、「(ナイトレジャーの業態では)やる気はなかったようですが、イケイケで仕事する人間が好きだったんですかねぇ(笑)」と中本氏は述懐する。
 結局、中本氏は同社の社員になる道を選び、8カ月を過ごす。「最初に書いた企画書なんかは意気込みだけでしたけど(笑)、8カ月の間に企画書の書き方も解ってきて、プレゼンが得意な先輩に巡り会えたり」で、結果を出すようになった。「で、どこの馬の骨か解らないままで…(笑)」企業内独立を果たすのである。
 それが今の「世界WORLD」の、始まりであった。「内装なんて、『ストラスアイラ』のままですし、新しい設備といえば、ステージと呼べないようなステージだけ(笑)」。それでも結果を出し続けた。後述するが、なかなかのメンツが同店のステージに立っている。それには大阪時代のコネクションもあったと思われるが、ともあれその中で、ビジネスについてにせよ、同店のポジションにせよ、中本氏が、「気づけばそういう位置に立っていた」というのはどういう意味か。

ミュージックシーンを語る前に
京都であることと、大阪との違い

 中本氏は、京都の生まれでも、京都の育ちでもない。それまで働いていたのは大阪である。街のメンタリティというのは必ずあるもので、近い都市同士であれば、それがなおのこと引き立ってしまうことがある。「同じ関西なのに…」という比較である。
 「京都に来て、街を見たときに驚いたのは『個人』が際だっていること。大阪だと『企業』なんです。京都には規模の大小はあれど、自分と変わらない年代のオーナーがゴロゴロいる。『みんな勝負してんな~!』と。ジェラシーを憶えましたし、喚起発憤しましたね」。折しも京都、とりわけ木屋町ではニュージェネレーションの台頭、世代交代期にあったこともラッキーだった。「その分、変な貸し借りがないという状況にありました」。
 そのことを考えたとき、同氏には、必ず引いておこうと思う線がある。それは能動的に引くものでもあり、受動的に引かなければならないものでもある。ここしばらく、大阪に住み続けているのもその理由のひとつである。
 「京都に住むと人間丸くなりそうで…。京都って時間軸がゆっくりしてるというか、たぶん、のんびり生活するには最高の土地なんでしょうけど。老後は京都に越してきます(笑)。自分なりに緊張感もってビシバシやるために大阪に住んでますね。何かと刺激の宝庫なので、大阪は。人間・店・アイデア…、そういう意味では東京がよりベストかもしれませんが。『大阪~京都』という距離感がいいのかもしれない。京都が客観的に見えるし、外国人がイメージする京都みたいなものを描けるというか…。それに営業を続けるためのアンテナをキープするためというのもありますね。イベントの情報交換やコントロールができるように。マーケットも『京阪神』に拡張しないと、大衆化したっといってもまだまだアンダーグラウンドな世界ですから。もちろん大阪に住むマイナス面もあります。『付き合い』面とかね。普段は遅くても終電で帰るようにしているので、『一線引いて…』というのは計算ではなくて、物理的な問題でもあって(笑)」。
 いずれにせよ、一本の線を跨いで考えるのは、例えば、京都で昼間にポッカリ時間が空いて、コーヒーでも飲みにカフェに行くとする。すると「京都ではその時間というのは仕事にはならない。でも大阪だと仕事になることがあるんです」ということがあるからだ。

はたしてどこに存在するのか
ライヴハウスと、クラブの境目は

 特にミュージックシーンに関係のない話のようだが、かつてのバンドマンはバーや服屋やレコード屋とつながっていた、という話であったり、(レーベルという意味ではない)メジャーになりたいなら、業種を問わず貪欲にどんどん自分を売り込むべきだという話であったり、通じるものはあるように見受けられる。要は、日々付き合っているミュージシャン(やアーティスト、DJ)にビッグネームが多いためかもしれないし、個人的な指針かもしれないが、出演者にアレコレ言うことがないのだろう。
 過去の出演実績「倖田來未」「Orange Pekoe」「マンデー満ちる」「SAFARI(浅野忠信)」「立花ハジメ(ex.PLASTICS)」「ブラフマン」「曽我部恵一」「野宮マキ」「m-flo」…といった面々に、今さら何を言うことがあるのか、という話である。上記は主立ったビッグネームではあるが、それ以外の出演者たちにしても、同じなのだろう。もちろん、まだ20歳代の後半であるという、若さからの遠慮がそうさせているのかもしれない。同氏の言葉になると、「今の状況を是とするならば、偶然の産物というか、たまたまという要素は大きいかもです。あらゆる面で(苦笑)」ということになる。
 しかしながら、出演者のリストを見ると、超メジャーなところから、いかにもアンダーグラウンドなところまで、幅があって面白い。先の「色んなものが消化され尽くして、細分化が始まった頃だった」という言葉が証明されているようでもある。「クラブ」という基本構造が、ライヴという手段でミュージックシーンを現出するのに必要な場所であるような気もするし、逆にライヴハウスの可能性を感じることもできる。
 「METRO」のオーナー・ニック山本氏は、今でも街で自らフライヤーを配っているという。曰く「街の様子もこうして見とかんとなぁ」である。先月ご紹介した「OOH-LA-LA」のオーナー・小原氏も同じようなことを言っていた。「イヤって言われるほど撒きまくる」と。中本氏も異口同音である。「オーガナイザーという立場になると、正直、色々と忙しくはなります。でも初歩の初歩、ビラ配りは命です。そういう仕事で気張れるか、気張れないかが分水嶺」と。「アンディ・ウォーホルだって、ずいぶん有名になってからも自分の個展があったら自分でフライヤーを撒いてたっていうからな。原点をサボるようになったら終わりだ」。そう言って中本氏に薫陶を与えたのは、「東京スカパラダイスオーケストラ」の谷中敦氏であった。
 こうなると、「クラブ」と「ライヴハウス」の境目はどこにあるのかを、むしろ疑いたくもなってくる。

to be continued…