MUSE 1

ハードとしてのライヴハウス
ソフトとしてのライヴハウス
 「KYOTO MUSE HALL」が誕生したのは’90年。遡ること3年前、’87年には心斎橋にも同じ「MUSE HALL」というライヴハウスが誕生している。
 システム(もしくは相関関係)としては、「MUSE HALL」という物件を所有しているのが「都レコード」という組織で、現場のマネージメント並びにプロデュースを行うのは「(株)アームエンタープライズ」という運営会社である。プロデュースとはすなわち、エントランスのチケットもぎりから音響・照明など、ハードウェアとしての「建物」の中の、全てのソフトウェアを指す。同社は他にも「ビッグキャット」「バリット」といった大阪や神戸の並み居るライヴハウス、さらに東京でも「オンエア イースト」「オンエア ウェスト」など、主だったライヴハウスをプロデュースしている。日本のライヴハウス業界における一大勢力と言っても過言はないだろう。
 同社の社長・岸本泰治氏はもともと一般の社会人であり、音楽というフィールドに同氏が進むのは’72年、友人に請われて大阪の北区で「NOW」というロック喫茶の立ち上げに関わったことだった。後に経営まで任されるその店で聴いた音楽や環境が、今に繋がる事始めである。
往年の「ロック喫茶」から
「ライヴハウス」の誕生まで
 岸本氏はある時また、別の友人から「レコードを流すのではなく、音響設備やステージを擁して、生の演奏を聴ける店をやりたい」という、当時としては荒唐無稽とも思われる相談を受けた。ロック喫茶「NOW」に集うアマチュアミュージシャン達の「演奏する場所がない」という悩みも多く聞いてはいたが、何しろ時代はまだ「ロック=不良の代名詞」という頃である。迷いやリスクがなかったと言えば嘘になるのだろうが、それに勝る「自分が浸かった音楽業界の仕組みを変える」という想いのもとに、同氏は引き受けた。
 今度はいちから新しい店をプロデュースするという話である。飲食店の知識と共に、今度は建築物の図面が読めるという、アルバイト時代に建築に携わっていた知識が役に立った。それまでの経歴が機能したのである。
 そうして出来上がった店は、もはや「喫茶店」のレベルではなかった。そこで同氏が考えた新しい店の呼び名、それが「ライヴハウス」であった。梅田にできたその店の名を「ザ・バーボンハウス」という。
 まだメジャーではない頃の「サザンオールスターズ」や「佐野元春」、「Johnny,Louis & Char」をはじめ、今その名を挙げれば錚々たるミュージシャンがそのステージに立った。この店の業態は後にスタンダードとなり、今に繋がるアマチュアからプロへ、マイナーからメジャーへという階段、つまりシステムがここから機能していくことになり、同氏が初めて自身の店を持つのは’84年、同じく大阪にできたライヴハウス「キャンディホール」であった。同時期に資本金100万円の「(株)アームエンタープライズ」が誕生、現在まで成功させている。そのノウハウを同業者が見逃すはずもなく、マネージメントを依頼されたのが、文頭にある「MUSE HALL」という訳だ。
 現在ではその活動範囲を中国の上海にまで伸ばす同社であるが、それはまた別の話となるので、ここで内容を京都に戻す。
’90年、ほぼ誕生日が同じでも
全く性格の違うハコが生まれた
 同店のオープンは’90年4月28日。来月にはめでたく15周年を迎える。奇しくも前号、前々号でご紹介した「KYOTO CLUB METRO」と同じ年だ。しかもオープン月も4月で同じ、日に至ってもメトロが10日という近さである。思えば’90年の春に、京都にとって、難しい’90年代を生き抜き、今に続くミュージックシーンを担うハコの両雄が誕生したのであった。そのキャラクターは両極とも言えよう。
 ’90年の末、32回目にして初めて「歌謡曲・演歌部門」「ポップス・ロック部門」に分けられ、それぞれにレコード大賞が与えられた。同年の大賞は堀内孝雄の「恋唄綴り」と、B.B.クイーンズの「おどるポンポコリン」だった。4月を起点にすれば、前年末の方が日が近い。’89年(平成元年)の第31回日本レコード大賞 受賞曲は「Wink」の「淋しい熱帯魚」であった。
 高いステージがあって、楽屋があって、音源によって着座でもスタンディングでも使えて、さらに充実した音響設備と照明設備がある。ライヴハウスを謳う以上、これらは当たり前のようだが、それまで「拾得」や「磔磔」をライヴハウスと呼び慣わしてきた京都にとっては、考えてみれば新鮮である。そもそも’90年までこういったライヴハウスが無かったのが不思議なぐらいだが、それだけ京都は特殊であったと言うことか。
 「ウチ、メトロさんとオープン年が同じなんですね」。現在、同店のブッキングディレクターを務める行貞利晃氏はしみじみと言う。同店ではブッキングマネージャーやブッキングディレクターが数年ごとに入れ替わるシステムを採っており、同氏は5代目にあたる。現在28歳で、もちろん同店のオープンには関わっていない。
オールジャンルという言葉
「ライヴハウスらしい」システム
 マンスリースケジュールを紐解いてもらうと、記念すべきオープン日のブッキングは「TROJANS & KAJA’S SEXY KANGOZ」。近年ではフジロックにも出演するスカの大御所である。行貞氏は「これを見て『すごいライヴハウスやん』と思いましたね」と言い、その他の「憂歌団」「是方スーパープロジェクト」「シーナ&ザ ロケッツ」「たま」「宇佐元恭一」「TAXI-HiFi CREW(RANKIN TAXI)」「14カラットソウル」…というラインナップを指して「ものすごいオールジャンルでしょ?」と笑う。思えば’90年の流行語大賞は「ファジィ」であった。「オールジャンル」と「ファジィ」では意味が違うが、「幅が広い」と言い換えれば、あながち強引でもないだろう。時代時代で、求められる店が生まれてくるものだ。関西のブルースやクロスオーバー系からロック、コーラス、果てはイカ天系まで、オープン当初のブッキングは、洋邦を問わず大物を中心としたワンマン、もしくは2バンドによる構成であった。
 もちろん現在では地元のバンドの登竜門としても機能しており、いわゆる「帰省ライヴ」をワンマンで行ったり、大物バンドとのタイバンができるようなイベント企画なども行っているのだが、オープン当初に限って言えば、先述の同社の素性と、「RED HOT CHILI PEPPERS」や「Mr.Children」「シャ乱Q」のブッキングを実現した心斎橋の実績も大きいだろう。そしてマンスリースケジュールに「SOFT BALLET」というバンド名。来るべき’90年代の同店をイメージ付ける名前も含まれる。
時代は「ヴィジュアル系」へ
世の流れと、あるべき流れと
 行貞氏は言う。「(ブッキングマネージャーの)ローテーションは会社の方針です。京都は京都のカラーを、と思いますから、現場は好きにやらせてもらってるんですけどね」。無論、経営上のノルマはクリアした上での話だ。ローテーションを行う気持ちは解る。ひとりのブッキングマネージャーを長く使うことで、偏ったカラーを持つことを嫌うのだろう。オールジャンルなどという言葉がないころから、オールジャンルを標榜するライヴハウスであればなおのことだ。そのため、スタッフの世代交代で新陳代謝を図る。
 そして、そんな思惑とは別に、時代の流れというものがある。’90年代中盤以降、いわゆる「ヴィジュアル系」と呼ばれるジャンルが日本中を席巻する。「Janne Da Arc」「L’Arc~en~Ciel」「MALICE MIZER」「SHAZNA」…。同店でもいわゆるヴィジュアル系バンドをブッキングの軸に据えたこともあるが、「LAUGHIN’ NOSE」や「BLANKEY JET CITY」「Hi-STANDARD」「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」「黒夢」「ウルフルズ」…、各時代を席巻した、骨のあるロックを真骨頂とするアーティストも同じステージに立った。それでもバンド数、その数に応じた観客動員数と共に圧倒的な流れであった。
 四条通というメインストリートに同店は面している。ライヴの終わり頃の時間、四条通に横付けした機材車と、少々奇抜な服に身を包んだバンドのメンバーをファンたちが取り囲む様子は界隈の風物詩とも言えるほどの隆盛を極めたのである。そして当時、その立地故に最もヴィジュアル系ライヴハウスのイメージが強くなったのが、同店だったかもしれない。
「ここはロックじゃない」
重く響く一言も喰らった
 ヴィジュアル系がこれほど世の中を席巻した理由について、興味深い話がある。例えばスカやレゲエ好きの人であれば、ライヴだけではなく映画も観るし、カフェにも行く。ひとつの音楽的なジャンルを元に、興味の向く方向がひとつではない。ところがヴィジュアル系の場合はライヴに集中するというのである。例えそれが自分の好きなバンドでなくても、そのカラーを持っていれば愛好者はライヴへ赴く。自分が好きなバンドであろうがなかろうが、ヴィジュアル系のライヴあがあると聞けば必ず訪れるというのだ。無論、相対的な比較だろうが、全く名前も聞いたことがないバンドのライヴが満員になったとも言うから、その傾向が強いのは本当だろう。同店に限らず、ライヴハウスとしてはこれほどありがたいことはないだろう。同じ事はCDのセールスにも言えるのかもしれない。
 だが栄枯盛衰は世の理。大きな流れほど、潮が引くのも早いものである。同コーナーではこれまでに何度も、そんな極端で一極集中的なミュージックシーンの在り方に敢えて苦言を呈し、それに立ち向かい、闘うライヴハウスを紹介してきたわけである。もちろん、ヴィジュアル系がいけないと言うわけではない。好き嫌いで語るわけでもない。特に同店の場合、一軒のライヴハウスとして、しかもオープン以来オールジャンルを標榜するライヴハウスとして、ひとつのジャンルのイメージが染みつくのは困る。「(このライヴハウスは)ロックじゃない」と言ったきりのバンドがあったというのは、さぞ辛いことだったろう。世の流れの最中にいながら、その流れの「割合を減らす」必要を感じたのもこの頃であったろう。
 商売という実を取るか、大義名分という名を取るか…。この葛藤は職業を問わず、時代を問わず存在する。実を見据えて後者を選ぶ理想を諦めるわけにはいかない。ネームバリューがあるからこそ、その葛藤がより強く、同店からは感じられるのである。              to be continued….